東京永久観光

【2019 輪廻転生】

雑誌『科学』(岩波)2004年7月号〜特集「言語の起源」 


ひとりでものをおもうとき、だれかとやりとりするとき、我々はのべつまくなしに言語を使っている。言語はまるで空気のようにそこにある。

空気という物質の存在に人類が気づいたのはいつごろだったのだろう。けっこう早かったのかもしれない。しかし空気が何から出来ていてなぜ人体に不可欠なのかを知るには、かなり長い時間を要したのだろう。

「空気とは何ぞや」「どうでもいいだろそんなこと。それより獲物とれたのかよ」

では言語は? 言語は何から出来ているのか。こころやあたまがはたらくために言語はどのように不可欠なのか。空気と比較してその解明はどこまで進んでいると言えるのだろう。いやそもそも、言語は本当に人間から独立した存在なのか。なかなか分からない。

「言語とは何ぞや」「どうでもいいだろそんなこと。それより書類できたのかよ」

ふだん我々は言語そのものに向き直ってみることはあまりない。そんなことをしなくてもたいてい大丈夫だから。でも不思議だなという気がかりはいつもある。

その不思議を漠然としたままにしておく必要はない。なぜなら、言語とはまさに何が謎であるのか、その謎を解く手がかりはどこにあるのか、数多くの専門家がじつに多様に知恵を絞ってきている。

雑誌『科学』2004年7月号の特集「言語の起源」は、その新しい手がかりの一つを示している。すなわち「進化」という観点だ。言語の探究としてはきわめて未開拓の手がかりのようだが、だからこそ研究者たちは思いのたけを冒険的に直接的にぶつけてきていると感じられる。とてもエキサイティングに読んだ。…中身についてはまたまた後日ということで。


◎雑誌『科学』2004年7月号 http://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo200407.html



 *



なお、この座談会をめぐって貴重なコメントをいただいているので、以下に転載しておく。


killhiguchi
 ご無沙汰しております。
 何やら大変なご様子。大丈夫では、、、ないですよね。
 お大事にしてください。


tokyocat
どうもようこそ。重いオノマトペ辞典など持ち歩くどころではなかったのですが、どうにか回復しました。ところで、最近岩波『科学』(2004年7月)の座談会「言語の起源」というのを読み、このテーマに関しては脳や進化の研究者と言語学の研究者の間に不信ともいうべき大きな隔たりがあるのを知りました。言語学者からすれば「言語自体を知らないで、よくそんな脳天気な空想ができますね」というのが本音のようです。どちらも素人の私にはただただ興味深いです。いつかまた折りがあればご教示ください。


killhiguchi
 あれは、確か、言語学者といっても、出てらしたのは、生成文法の言語習得をやってらっしゃる大津先生だったのではないかと思います。生成文法の立場からすると、脳や進化の問題、特に進化の問題は特殊な位置を取らざるをえないのです。その辺りの事情は、ピンカー『言語を生み出す本能』NHK出版をお読みください。ピンカーの進化に対する考えも生成文法内部では異質ですけれど。
 認知言語学という流派はもっと別の取り組み方をしています。トマセロ『ことばをつくる』慶応義塾大学出版会、『心と言葉の起源を探る』勁草書房あたりがいいのではないでしょうか。
 言語学も一枚岩ではないということです。確かに、他の認知領域と異なって、言語は言語学を知らなければ研究が進まないので、脳や進化の研究者も言語学を勉強しなければならないのですが、その理論に引っ張られて研究を進めるのもどうかと思うのです。theory-dependent過ぎはしないかと。科学ならば、脳科学や進化研究から、帰納的に言語学を構築してみたらどうかと、いつも思っています。 shokou5さんにはそうやっていつも他人事みたいなことを言って挑発しているんですけれどね。
 ご教示なんて偉いことはできません。私もまた素人の一人にすぎないのです。
 なにはともあれ、腰をお大事に。


tokyocat
実際は言語学も多様なのですね。しかしそのなかで生成文法が大前提という立場だと、言語の誕生を進化として捉える発想とは根本的に衝突してしまうということなのでしょうかね。

生成文法の企て』や『自然科学としての言語学』をちらっと読んだところ、チョムスキーの現在の主張は「自然言語にとってかぎりなく当然の原理を抽出しただけ」のようにも感じられました。

比喩としていえば、「自動車が走るには車輪とハンドルとそれをつなぐ機械が必要です。その機械は自動車にしかない特別な機械です」みたいな。あるいは、経済という現象を説明するのに「生産があり、消費があり、その両方を結びつけて同時に成り立たせる特定の仕組みが存在します。その仕組みは、他のどんなものの仕組みとも異なり経済だけがもつ仕組みです」みたいな。それに加えて、「その機械や仕組みは、この世に自動車が登場した最初から、この世で経済が始まった最初から、備わっていました」と。

しかし、チョムスキーを受け入れない人は、「自動車に固有かつ不変の機械なんて本当にあるのか。船や飛行機にもあるのではないか。この部品とこの部品をこう組み立てれば作れるんじゃないか。電気自動車はどうなるんだ」という気持ちなのでしょう。

トマセロやディーコンは明らかにチョムスキーに異を唱えているようですね。しかし、「普遍文法=ヒトの言語に固有のモジュール(機械・仕組み)」としたばあいに、「そのモジュールが脳という機械や心という仕組みのうちの何を指すのか」を、チョムスキーはいつまでたってもはっきり言わないみたいで、いくらでも追求を回避できているようにも思われます。(「再帰」ということだけは言っているようですが、それもヒト言語に固有かどうかは曖昧ともとれるようです)

…またテキトウな話が長くなりました。このへんで。今後も首をひねり腰をひねる日々を続けます。


shokou5
tokyocat さん、ご無沙汰しております。
killhiguchi さんに挑発された (あれは挑発だったのですか笑) のでやってきました。以前 tokyocat さんにメールをいただいたのに、お返事できないままで気がかりであったので、この機会にコメントさせていただきます。killhiguchi さんにも以前このテーマでお話をふっていただいたままになっていたのでこの場をお借りして、合わせてお返事とさせていただければ、と思います。
『科学』の座談会は日本の言語研究の層の薄さを反映したかなり特殊な雰囲気だったと言えるかもしれません。言語に関係しないひとたちも大分混じっていましたし。海外では進化・脳・言語の研究者の相互理解も大分進んでいると思います。
killhiguchi さんのご挑発も御尤もなのですが、神経活動の膨大な情報量からデータマイニングしてくるためにはどうしても理論が必要なのです。その意味では認知言語学よりは生成文法のほうが科学者にとって扱いやすいと言えます。僕が現在取っているのは、対立する仮説同士を比較してどちらにより神経活動を説明する力があるか、という方法です。アブダクティブな方法なので、生成文法そのものを実証しているわけではない、かもしれません。それはともかく神経回路の計算機構が明らかにならない以上、なかなか帰納的な理論構成は難しいのです…。いや、いつかしてみたいとは思うのですが、帰納だけが科学を構成するわけでないのです、という苦し紛れの言い訳をとりあえずさせてください。
最近は生成文法内部でも進化学とのインターフェイスが生まれてきて、博覧強記の天才たちが妄想を爆発させる biolinguistic などという分野が生まれています。仮説の域を出ないものばかりですが、議論自体は興味深いものがたくさんあります。
tokyocat さんが以前メールで仰った「生物としての特性を超えた普遍的なルール」ですが、この方向で議論を進めているのが たとえば Piatelli-Palmarini と Uriagereka です。いわば自然淘汰に乗る前の構造自体を既定する自己組織化のルールとして文法を捉えています。言語構造のなかにもフィボナッチ数列が見いだせる、それがXバーに根ざしているとかなんとか。この辺りは実は進化学でも 19 C 以前から続く根深い対立があって、ネオダーウィニズムとは別の方向からの議論がなされています。チョムスキーの進化の話がわかりにくいのも、実はこの路線だからです (彼はグールド寄りですから)。ピンカーにしろトマセロにしろ、ネオ・ダーウィニストなので、違った切り口が出てきたのは面白いと思います。
以上、最近の動向をいい加減にお伝えさせていただきました。でかい風呂敷を広げた話なので細部はいい加減かもしれません、ご了承ください。
それでは、どうかお体をお大事に。それにしても今日は妙な陽気ですね。


tokyocat
どうもこんにちは。興味深く貴重な情報をありがとうございます。

言語的な認知はニューロン神経細胞)のいかなる回路によって構築されるか。それを知るために、とりあえず生成文法認知言語学の理論をモデルとして当てはめてみる。そういうことが学問的に行われているということのようですね。そうした考察に、進化した生物であるヒトという条件が、ときにはアクセルときにはブレーキとして働いてくるということになるのでしょうね。

それから、「自然淘汰に乗る前の構造自体を既定する自己組織化のルール」ということでは、池上高志さんの研究などが関係するのかなと思ったりします。それと、チョムスキーは要するにそうしたルールがヒトの脳だけに突然現れたと考えているのかどうか、もしそうなら、ではそうしたルールはどこに由来するのかについても何か言っているのかどうか、そうしたことを知りたいと思っています。

ともあれ、思いがけずお二方から書き込みをいただき、家のポストに豪華なチョコレートが2つも入っていたような気分でした。どうぞこれからもよろしく。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/comment?date=20090211#c