東京永久観光

【2019 輪廻転生】

NGかOKか それは事実による

日本における医療の対応や社会の対応について、「ゆるすぎだ」と批判する人と、「やりすぎだ」と批判する人に、大きく分かれているように見える。これは結局、認知している事実が両者で異なるからだろう。そう思うようになってきた。

ああ違う(訂正)。認知している事実が異なるからではなく、事実の認知が異なるからだろう。感染者や死亡者の報告数という事実が、どれほどNGなのか、どれほどOKなのか、という認知が異なる。

しかしながら、この認知の差は、実は、報告された感染数や死亡数をふまえた「本当の感染数や死亡数」はいかほどかという、もう1つ別の事実に関わる。それは、事実の認知(NGかOKか)ではない、事実そのもの(それぞれいったい何人なのか)だ。

私個人としては、その事実が知りたい。実際には、その事実を勝手に予想しながら「NGだ」とか「OKだ」とか、毎日毎日心を揺らしているわけだが、それでもやっぱり、事実がはっきりしないことには認知もできない、したくもない。

 

唐突に話が飛ぶが、かつて(いやそれほどかつてではない)籠池さんという夫婦がいて、昭恵さんという女性から、100万円の現金をもらったとかもらわなかったとかで、日本中が沸きに沸いた(私も沸騰した)

さてそのとき、私がものすごく気にしていたのに、周囲の人はさほど気にしていないようで、首をひねったことがある。それは100万をもらう是非の認知ではない。100万円をもらったのかもらわかなったのかの事実の有無だった。

100万円の紙幣という物質が、そこに存在したのか存在しなかったのか。どちらかしかないはず。紙幣が存在する状態と存在しない状態との中間状態かな、なんてのは通常ありえない。そんな根本の事実を曖昧なままにして、よく安眠できるねとすら言いたい。

 

私が住む日本における新型コロナウイルスの感染拡大についても、そうした事実そのものが、結局のところ、おそろかにされていると感じる。事実をあいまいにしたまま、現在の推測と未来の予測ばかりが、かまびすしい(喧しい←漢字)。

 

もう1回まとめて言う。これがOKなのかNGなのかは、感染の事実によってしか判断できない。感染の事実とは基本的には数だ。多いのか少ないのかだ。それは、新型コロナによって特定のある方が亡くなったのか亡くならなかったのかという事実1つ1つが限りなく重いのと同じように、重い。