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【2019 輪廻転生】

★鈴木大拙『禅』――そして坂口安吾、ウィトゲンシュタイン

禅について、ちゃんとしたものを読んだことがないのは いかにもまずいと ずっと思っていたが、鈴木大拙『禅』(筑摩書房)という手ごろな一冊があったので、手にしている。

 禅 (ちくま文庫)(ワイド版)

禅を知らないといっても、日本にいれば何らか聞きかじるものであり、なんとなく「奇妙にして無茶なもの」というイメージを抱いてきたわけだが、この本を読むと、そのイメージがまったくそのまま簡潔明瞭な説明として定着してきたので、ちょっとあっけにとられた。

「奇妙にして無茶」とは? 同書が出してくる例でいくと―― 

我々の体には仏と変わらぬものがあり常に体を出入りしていると言うが、それが何かわからないので、「それは一体いかなるものですか?」と偉い僧(臨済)に聞いたところ、僧は「糞かきべら」などとしか答えてくれず、立ち去ってしまった。

次の例―― ある僧が師との面談をやっと許され、その門を入ったところ、師は僧の胸ぐらをつかんで突き飛ばし、そのとたん門が急に閉まり、僧の片脚が折れてしまった。しかしその僧は《全宇宙がそこに源を発する生命の原理を看取するために、その片脚を失わなければならなかった》のだという。

あまりにも「奇妙かつ無茶」に思えるわけだが、しかし、それが奇妙かつ無茶であることには理由があるのであり、同書は、その理由もまた同じく淡々と説明していく。すなわち《禅の意味》ということになる。

そのポイントは以下のような記述にあるのだろう。《…禅は、自己の体験の事実に直接訴えてこれを解決しようとして、書物の知識にはよらない》 《自己の体験というのは、直接に事実に到ることを言い、それが何であろうと、いかなる媒介をも介さないのである》

さらに。《言葉の説明は、それをいかに積み重ねようとも、われわれを自己の本性に導き入れてはくれない。説明すればするほど、それは遠のいてゆくばかりである。ちょうど自分の影を捕らえようとするようなものである。あなたがそれを追えば、それは同じ速さで逃げてゆく》

世界があることや生きていることには、明らかにものすごい価値や意味があるのだが、そのことは「言葉ではけっして説明できない」ということになろう。聞きかじっていたことが、あまりにもありありとそのままなので、爽快というしかない。

それでもなお疑問が浮かんでくる。言葉では説明できないからといって、「糞かきべら」などという奇妙な文言や、門が閉まって脚が折れたなどという無茶なエピソードを、ありがたがる必要があるのか、と。それで何が理解できるのか、と。

この疑問をめぐっては、「月を指すとき、愚か者は月を見ず、指を見る」という格言のようなものが参考になるだろう(同書もそれを示している)。奇妙な文言も無茶なエピソードも方便にすぎない、指にすぎない。指が示す月を見よ、と。月とは? それこそまさに「世界や生の価値や意味」だろう。


ところで、ここで私がまたもや思い浮かべたのはウィトゲンシュタインだ。もちろん、ウィトゲンシュタインと禅が互いに参照したという形跡はないだろう。しかし、今年は私にとって「ピョンチャン2018」ではなく「ウィトゲン2018」なのだ。仕方ない。

ウィトゲンシュタインも「言葉こそが間違いのもと」と考えたフシがある。そこは禅とまったく同じにみえる。しかも「この世界には本来なんの謎もないのに、言葉を間違って使うから、世界がわからなくなってしまう」ぐらいの強い思いをウィトゲンシュタインは抱いていたようだが、それも禅そっくり。

しかし、禅が「言語に頼らないこと」を極意にしたのだとすれば、「言語の限界」自体を「まさに言語によって裏打ち」しようとしたのがウィトゲンシュタインと言えるだろう。「言葉がなぜ世界のしくみを説明できないのか」を「言語では ほらここまでしか説明できないでしょ」と示すことによって。


ところで、禅の「糞カキベラ」という表現については、坂口安吾がなにかのエッセイで紹介していた。…調べてみたら「日本文化私観」だった(下のリンク)。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html

《林泉や茶室というものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に建設された空中楼閣なのである》《これは仏かも知れないという風に見てくれればいいけれども、糞カキベラは糞カキベラだと見られたら、おしまいである。実際に於て、糞カキベラは糞カキベラでしかないという当前さには、禅的な約束以上の説得力があるからである》

なかなか痛快だ。高校か大学のころに読んだと思うが、若いから余計に痛快だった。…長く生きた。

それから随分時が経ち、たしか表参道の新潟館で坂口安吾について高橋源一郎島田雅彦が対談するのを聴きに行ったとき、島田がこの「糞カキベラ」を取り上げ「糞カキベラってありますよね、あれって何のことか知ってます? 先日ちょっと調べたんですが…」などと話したのを思い出す。……長く生きた。


念のため述べておくが―― ウィトゲンシュタインは言語というハシゴを使って月に到達したと確信し、ハシゴを投げ捨てようとしたが、後からそうではなかったと思い直し、むしろ言語というハシゴ自体に、月ほどの豊かさ、つまり世界や生の本質と切り離せぬ豊かさを見出すことになった(と思う)

そして今日の大事なポイントですが―― 禅が示そうとする「言語を超えたところにある」世界や生の価値というものも、ウィトゲンシュタインが示そうとした「言語に絡んだところにある」世界や生の価値というものも、私にはどちらも本当にあるように感じられます。すごいね。長く生きた。


http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180218/p1 へ続く)