東京永久観光

【2019 輪廻転生】

禅、ゲーデル、盲学校

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180210/p1 からの続き)


鈴木大拙『禅』をまだ読んでいる。


結局やっぱり「言葉ではわからないよ」ないし「言葉でわかろうとするからこそわからないんだ」ということになるようだ。ここでいう「言葉」は、「論理」や「知識」に置き換えられるし、「哲学」や「知性」にまで置き換えられる。

そのわりに、では「禅指導の実際的方法」(第五章)はというと、「口頭による方法」と「直接的方法」の2つがあり、さらに「口頭による方法」には「逆説」「反対の超越」「矛盾」「肯定」「反復」「叫び」の5つがあります、とあるから、あれやっぱり言葉や論理を道具にするわけ? と思う。

とはいえポイントは逆説、反対の超越、矛盾などであり、いわゆる禅問答の趣きがここにきて全開になる。

例えば――「お前が杖を持っているなら、わしはそれを与えよう。持っていないなら、それを取り上げよう」。

あるいは、問い「一切諸仏の師は誰か」 答え「タタン・タタン・チチン・チンチン」。

あまつさえ― 「一条の光線が、幾百、幾千もの光線に分れます。この一条の光線はどこから生じるのかお教えください」この深く難しい問いに答えるのに、ある老僧はただ、《一言も言わずに、ただ靴を片方脱ぎ捨てた》。(ここを読んで私は吉田戦車の『伝染るんです。』がよみがえったかと思った)


ところで、ひどく大昔、郷ひろみの歌に「裸のビーナス」というのがあったのだが、ラジオのリクエスト番組に「禅のビーナス」と間違えたハガキが届いた、とかいうエピソードがあった。それで思うのは「禅の王様」こそ「裸の王様」なんじゃないかということ。だれでもそれを疑うだろう。


それはそれとして。考えてみれば、仏教や禅の本質を会得する、いわば悟るとは、体験なのであり、自転車に乗れるか乗れないか、スケートの4回転ループができるかできないかと同質のものだろう。自転車の乗り方や4回転ループのやり方を本で読んで理解しても、それはそれができたことを意味しない。

しかしながら。自転車やスケートのゴールはたしかに頭ではなく体の体験だろう。では禅のゴールは? 100パーセント体の体験なのか? けっこう頭の体験だったりはしないか? 自転車やスケートと異なり、禅が「できる」という偉い人を見ても、何かに乗ってもいないし滑ってもいないだろうから。


ともあれ、この鈴木大拙『禅』は、もともと英文で書かれた内容の邦訳らしく、西洋向けに禅をさっくり伝えるためかもしれないが、著者の説明の言葉自体には韜晦のムードはまったくない。とてもありがたい。禅の言語感覚の奇妙さに自身もいくらかは困惑しているようにすら感じられる。とてもおもしろい。


さっきのところに戻って―― 自転車に乗れる人か乗れない人かは見ればわかるが、禅がわかった人かわかっていない人かは見てもわからないかもしれない、と述べた。これをさらに進めて――

「禅がわかっていること(または人)と、禅がわかっていないこと(または人)」は そもそもはっきり区別できるのか、という疑問が浮かんでくる。

つまり、それは、目が見える人と見えない人くらい、はっきりと区別できるのか? それとも、恋愛がわかっている人とわかっていない人くらい、あいまいな区別なのか?

ここで私が恐れると同時に期待すること。それは、私は禅がまったくわからないのに「禅とは何だ?」と大仰に無駄な思案を重ねているだけではないか、ということ。まるで、目がまったく見えない人が「目が見えるとはこういうことだろうか」と空想するかのように。

これを次と比較してみる―― ゲーデル不完全性定理が、私はまだ「わかった」と思えない。だから、ゲーデル不完全性定理がわかることがどういうことかがそもそもわからない。それでも、ここが重要だが、不完全性定理がわかっている人が実在するのは確実だろう。

問いをまとめればこうなる。禅がわかることと禅がわからないことは、目が見えるかどうかや不完全性定理がわかるかどうかと同じく、明瞭に分けられるのか? さてどうなんだろう?


そんなことをツイートしているうちに、禅はともかく「不完全性定理がわかるってどんな感じなんだろう」と、またもや強烈に気になってきた。なにしろそれは、封建制がわかるかどうかとか、恋愛がわかるかどうかとかとは違って、目が見えるか見えないかくらいに明瞭な差だろうから。

つまり、「不完全性定理がわかった!」という感触は広範でも複雑でもなく、目が見ない人が「目が見えた!」というくらい単純な体験だろうと思うのだ。では、禅の把握もそれと同じように明瞭なのか? 「禅がわかった!」という人が本当にいるなら、そこを聞いてみたい。


ついでになるが、有益情報もツイートしよう。以前、盲学校の先生から次のような話を聞いた。目の見えないある生徒が、目が見えるとはどういうことかをさんざん聞かされいろいろ考えた末に、「そうか先生、目が見えるって、目からこう手がたくさん出ているようなことなんだね!」と言ったそうだ。

私が視覚を大いに頼りにするように、彼らは触覚を大いに頼りにする。この世界がどういうものかを把握するのに、触覚のイメージはきわめて重要なのだ。ただし、触覚は視覚とちがい遠隔の情報を取得できない。しかしもし、目から無数の手が遠くまで伸びていったなら…。彼はそう想像したのだろう。

この、盲学校の人たちから話を聞いたことは、ものすごく大きなインパクトがあり、何度かブログに記している(以下のリンク)

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080408/p1

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160126/p1


もう1つ言っておくことがあった―― 

私の実感では、言葉は強力かつ正確だ。あいまいや もれが まったくないことを 自ずと目指してしまう。まるで法体系のごとく。だから、「それが何か」を言葉で説明すれば、ある領域が明瞭になるが、同時に、そうでない領域がどんどん切り落とされる。

一方、禅の言葉は、どうやら、そのような戦略をとらないことで、そのような陥穽を避ける。言葉をあいまいにしておくことで、領域もあいまいにしておく。正しいことを示さないことで、正しくないことを示してしまう過ちを避ける、といってもいいか。

……と、こんなふうに考えますが、いかがですか……「喝!」(これは「叫びによる指導」に分類される)

……ただね、言葉が強力で正確だということを実感するのは、べつにウィトゲンシュタインのせいというより、むしろ日々ツイートばかりしているせいなんだよね。言葉は使えば使うほど強くなりうる。