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【2019 輪廻転生】

★騎士団長殺し/村上春樹


 騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編


《たそがれには 
 うつむきかげんの 少女が よく似合う 
 悲しそうな 目をして 
 たたずんでいる 一人ぼっちで 
 僕はといえば 
 古びた ギターケースに 腰掛け 
 くわえたタバコに 火をつけて 
 ため息ひとつ こぼした》

唐突だが、これは70年代、私がまだ10代だったころ、ヤマハポプコンでグランプリをとった「他愛もない僕の唄だけど」の歌詞(児雷也)で、当時いい歌だなと思ってたわけだが、よく読んでみれば、「たそがれ」だの「うつむきかげん」だの「たたずんでいる」だの、みごとなまでの紋切り型。

とりわけ気になるのは「少女」だ。

というのも、村上春樹騎士団長殺し』の1巻目をちょうど読み終えたところで、相変わらずの奇妙なストーリーなのだが、結局また、『1Q84』と同じく、とりわけ奇妙な「少女」が、特権的な位置づけのようにして登場してきてしまったからだ。

少女が特別でもべつにいいけど、なんでまた、みんなみんな、いつもいつも、少女なのかと、ややあきれないだろうか。そんなに少女は素晴らしいのか? すばらしいのだ、たぶん。とりわけ「たそがれどき」に「うつむきかげん」の「悲しい目」をした「少女」とくれば、流行歌の世界では無敵なのだ。

そして、『騎士団長殺し』は すこし付箋しながら読んでいたので、1巻目が終わって振り返ってみたところ、なんで自分がそこに付箋をしたのか、ひとつも理由がわからず、はがしておしまいだった。いつもいつも私は、「村上POP」とでも称すべき紋切り型の雰囲気に、いっとき溺れるだけなのか?

ところで、さっきの歌の続きはこうだ。《十字路には 買い物帰り 立ち話の おばさんたち》

……そうだ、村上春樹も、たまには「少女」でなく「おばさん」の、しかも絵画教室から帰る麗しの人妻のおばさんではなく、ただの買い物帰りのおばさんの苦悩や可能性を書いてみたらどうだろう。

(ちなみに、鴻池祥肇氏の用語では「おばはん」であることは、言うまでもない)

もちろん、「少女」という素晴らしい幻想に永遠にひたりつづけるのも、ひとつの人生だ。たとえば「くわえたタバコに火をつける」という素晴らしい幻想にひたりつづけるのがひとつの人生であるのと、同レベルではあるものの。

――いろいろ文句を言ったが、『騎士団長殺し』は、毎夜だらだら目的もなくツイッターをブラウズする時間を、珍しく奪い取るほどの、近ごろきわめて希少な惰性耽溺本であることは、間違いない。そしてもちろん、本当に面白いところもある。

たとえば、招かれた家の食卓で給仕する青年が《まるで特殊な地雷を扱う専門家のような注意深い手つきでワインのコルクを開けた》というくだりで、かつて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にもワインの栓を抜くときの秀逸な比喩があったのを思い出すとか、そんなところ。

そっちは《宮廷の専属接骨医が皇太子の脱臼をなおすときのような格好でうやうやしくワインの栓を抜き》だった(ネット調べ) 

あと、イデアの形象化であるらしい騎士団長が、昼下がりに人妻と密会する主人公の様子を、煙突掃除を眺めるかのように観察しているところとか。その騎士団長が「ほかにちょっと行くところもあるからな」と消えたので、イデアにどんな「ちょっと行くところ」があるのかと、主人公は少し考えてみた、というところとか。

さて―― 『騎士団長殺し』の第1巻の最後では、ゴチックで書かれたまるでここまでの要約にして結論であるかのような1行が目に入る。

《ぼくもぼくのことが理解できればと思う。でもそれは簡単なことじゃない》

まあそれはそのとおりだ。たそがれどき、うつむきかげんに、たたずんで、私もそう思う。

 *

それにしても、私のタイムラインに『騎士団長殺し』のツイートがまるきり出てこないのは、どうしたことか。『ゲンロン0』が出まくりなのと、きわめて対照的。これはまさに似たものネットワークのクラスター化ということか。だからほんとは少し観光(誤ったフォロー)をしたほうがよいのだろう。