東京永久観光

【2019 輪廻転生】

参加感がない(ツイッター時代の不定愁訴)


日本中のできごと・世界中のできごとが、ネットのブラウズだけで手に取るようにわかる。……「いや、手に取るようにわかるわけではない」と反論されるかもしれない。だったら「昔は、手に取るようにでなく 何がそんなにわかっていただろうか(何もわかっていなかった)」と再反論したい。

ただ、参加感がないのだ。日本や世界のあらゆるできごとに自分が参加している感じがしない。――ツイッターが日常になったおかしな時代の不定愁訴の正体はこれなのだ。

さてでは来るべき将来、私程度には賢くなった人工知能もまた、つぶやくのだろうか? 「参加感がしない」と。(でもどこに参加?)

ならば旅行はどうかというと、とどのつまりは同じく何かをただ眺めるだけの行為なのかもしれない。が、参加感はある。この違いは、Google mapを脳だけが旅行するか、地上を体全体が旅行するかの違いであろうが、この違いはやはり簡単には覆らない。――というなんら新鮮味のない結論。

これでふと思い出したことがある。私たちの脳には、自分で撮影した写真を見るときにだけ活動する前頭葉の領域があるらしいのだ(他人が撮影した写真を見るときは活動しない)。だいぶ前に読んだ『心の脳科学』(坂井克之)という本に書いてあった。=以下のリンク先に書いた=

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20120413

これは、その写真を撮影している場所に自分の体が置かれていた状態がなんとなく思い出される、とか、この光景を自分の目が見ているときに自分の指がシャッターを押した覚えがある、みたいなことかと思う。無意識のうちに脳は時々刻々の体験を記憶として確実に刻みつけてくれるのかもしれない。

しかしそれなら、毎日毎日ネットで飽きるほど浴びるほど見ているニュースの写真や他人が撮った写真はどうなんだろう、という疑問がわく。なんかそのあたりはもう脳はごっちゃにしてしまう(自分がその場で撮った写真と自分がネットで見た写真を)ような気もするが、そうではないような気もする。

それに絡んで強く実感していることがある―― 自分が書いた文章を読むときは、他人が書いた文章を読むときと違い、圧倒的に決定的にすらすら読めてしっかりわかる、という実感だ。

いや自分が書いた文章だから当然かもしれないが、そう単純でもなく、それなりにしっかり考えて文章を書くときには、脳のなかの記憶や思考がけっこう総動員されているのではないか。ひょっとしてペンを運んでいる手の運動やキーボードを打っている手の運動も、脳内では連結されている?

この話をもう一歩進めるけれども―― おもしろいことに、他人の書いた文章であっても、まるで自分が書いた文章のように感じられるという体験も、またある。そのときは、ひょっとして、脳のなかで自分が文章を書いているときに似た思考や記憶の総動員が起こっているのではないか?

そしておそらく、粗雑な人間や粗雑なAIがコピペしたWELQ的な文章では、そうした脳の総動員が紙一重で起こらないのだろう。だから、読んでも読んでもどことなくの粗雑さが感じられ、やれやれとしか感じない。……しかし、もし、粗雑でない人間やAIが粗雑でないコピペを成し遂げたなら…?

ここまで言ってきたことは「それを自分が実際に体験したのかどうかを、脳はどうやって区別するのか」という問いにまとまるかもしれない。その答えは、たぶん「それがエピソード記憶かどうか」がカギを握っているのだろう。自らの写真撮影や自らの文章執筆はエピソード記憶になる、という仮説。

この話もまた、さっきの本(坂井克之『心の脳科学』)に直結する。そのこともそのとき書いた。=以下のリンク先=

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20120317/

「脳内シナリオライター〜海馬こそ物語の源泉ではないか」と。「物語」という脳科学ではなくむしろ文学の用語がここに登場してくる。