以下は今しがたコメント欄に書いたこと――
(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110409/p1#c)
こんにちは。原発を「面白いかどうか」の問題にして是非の問題を避けているのかもしれません。今「原発を維持しよう」と言うことと「原発を廃止しよう」と言うことの、どちらが難しい行いなのか、どちらが自由に十分に考えた結果なのか。そう思うと私は迷ってしまいます。
まったく別の話ですが、こちらにこんなことが書いてあります。
《粗雑な作品というのは要するに、作品の内的な必然性ではなく、外的な確からしさやもっともらしさや言い訳に依存し、一般的な問題や常識や説得力に訴えかける度合いが高いということなのだと思うけど…》(偽日記@はてな)
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110416
これは大江健三郎の小説についてですが、原発に関する主張も、一般論ではなく原発という個別のことについて考え抜かれた結果であれば、賛成であれ反対であれ、敬意を表したくなります。
ただその一方で、あるていど見切り発車をすることが我々には必要なこともあるでしょう。現在の日本の原発に関する是非も、見切り発車こそが必要なのだと思い直したりもします。賛成や反対を思い切って口にすることのほうが大事だし尊敬に値するのだと。
どういう次元で考えても、なかなか結論が出ませんね。
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こうやって書いてみると、自分のもやもやがはじめて自覚できるのが、面白い(またもや!)
しかも、こうやって書いてみないと、ずっともやもやしたままだったのだろうとも思う。
《「面白さ!」と言い切ってしまう「感性」がいいですね〜》というコメントをもらったことが、少なくともこれだけ書いてみるモチベーションになった。そしてそのあと『偽日記』を読んで、妙にシンクロしてまた書いた。
そうでなければ朝からいろいろ書いたりはしなかったと思う。
我々が実際に文章を書くかどうかは、そうしたちょっとしたきっかけがカギになる。今なぜか はてなダイヤリーよりツイッターのほうが書きやすいなら、理由はさておき、ツイッターに書いてしまえばいいのだ。「あのデモはなんか知らないけどつい出かけてしまったのです」というなら、それはそれで良いことなのではないか。
というわけで、「あなたは原発に賛成か反対か結論を出すのに賛成か反対か」という標題について、けさは「とりあえず賛成!」と答えておきたい。
大昔、高校の学級日誌になぜか言論の花が咲いた一時期があったのを思い出す。