そのような体験を私はした(それすら昔の話)。私が通った高校では卒業して27年後に本格的な同窓会を行う決まりなのだ。出席した日の感想を一言でいうと――
「まるで拉致被害者の帰国だ」
◎参照:http://www.youtube.com/watch?v=HmkdfA_0_Vo
もう若くないという事実には落胆のほか何もない。だから、お互い笑うしかない。笑えるほど脳天気であることが、むしろ不思議なくらいだった。
なぜみんな年をとっても絶望して死んでしまったりしないのだろう。
若いころの未熟さや過敏さというものが、ひたすら懐かしいけれども、同じくひたすら恥ずかしく悔やまれるものだからではないか。「もう二度と繰り返したくない」「ああ今は脱することができたんだ」 そんな安堵は本当にありがたい。
それともう一つ。若かった者が長い歳月によってどのように転じていったのかを一挙に眺めるというのは、何ものにも代えがたく、心が隅々まで打ち震える体験だからだ。昔と今を自在に行き来して味わう苦さと甘さ。それがいやでいやで仕方がないわけでもないから、人は生きていられる。
ジェニファー・イーガンの小説『ならずものがやってくる』(谷崎由依 訳)を読み終え、そんなことを改めて思った。
(続き)
<小説と時間>
時は常に流れていく。しかも一方向にしか流れない。私たちはそれを重々知っている。それでも私たちは昔を思い出し先のことを思い描く。ひょっとして、時の流れを知るということは、時を超えるすべを知っていることなのではないか。つまり「私たちは過去も未来も現在も一緒にしながら生きることができる」と言うべきではないか。
動物には現在しかないと言う。快と不快の瞬間が明滅するだけ。自分はかつて生まれたのだということもやがて死ぬのだということも動物はおそらく知らない。人間だけが昨日のことを後悔し明日のことを心配するのだ。(ちなみに私は仕事をまったくしていなかった時期があるが、そのときだけは昨日・今日・明日を区分けするモチベーションが本当になかった)
では私たちは、こうした過去の回想や将来の想像ということが、大昔から得意だったのか。これまた案外そうではないのかもしれない。私たちがその本格的な練習を積んだのは、もしや、近代の小説を読むことを通してだったのではないか。
奇妙な考えだろうか。
しかし、小説を読むときはたいてい、時の流れを越えていくつもの出来事を結びつけることをしている。だれかのとても長かった生涯を一気に眺めることをしている。小説とはこうした不思議な頭の使い方を強いるのだが、たくさんの小説を読むことでそれに馴れ、現在ではさほど不思議に感じなくなったのではないか。
昔を懐かしむというトレーニングでは、写真の発明もきわめて大きな貢献をしただろう。嘘の出来事を本当のように実感するというトレーニングなら、やはり映画だろうか。
小説は映画と似ているけれど違いがある。読むスピードを好きなように加減できる。読むのを中断することもできる。同じページを繰り返し読んだりずっと前や後のページに飛んでいってもかまわない。当たり前のようだが、ひょっとして、こうした自在さがあってこそ、小説は、歳月というものがいかにして進行するのかを分析したり概観したりするのに、ぴったり適しているのではないか。
ただし、こうした自在さとは対照的に、小説を読んでどうしても気づかされることがもう一つある。それは、文章そのものは、書かれたとおり一行一行、一文字一文字たどらなけらばならないことだ。テキストとは一本のみ一方向のみの愚直なメディアなのだ。この愚直さは、私たちが現実の生涯だけはたった一度しかたどれない無情さ、しかも否応なく流されるままにしかたどれない無常さと、あまりにも似ている。あるいは、一冊の小説で長い日時の経過を読んでいたら、おやおや自分の生活も長い日時が経過していた、などという実感も、そっくりではないか。
というわけで、この『ならずものがやってくる』を読むと、多くの人物がそれぞれにくぐり抜けた歳月というものに触れ、心をおおいに砕かれ、この小説にはそうなるだけの仕掛けがいくつも施されているのだろうと思うわけだが、そもそも小説とはそうなるだけの潜在力をもっているのだとも思われてくる。
それと私は、自分がブログを書いてそれを読み返すことでも、小説と似たトレーニングを積んでいる気がしている。
(さらに続く)