「読む」と「書く」はもっとスムーズにつながっていい。どちらも言葉と頭だけを使う行いなのだから。ところが本を読みつつ文を書くのは、なかなか難しい。それに比べツイッターは「読む」と「書く」が不可分なほど近い。ネットばかりで本を読まない理由は実はこれかもしれない。
そういう意味でも、ツイッターはやはり言語の先祖返りだ。
人間にとって言語は最初から思考の手段だったわけではなく、伝達(コミュニケーション)の手段だったわけでもなく、ただ自分の心や頭の活性化や沈静化のためにぶつぶつつぶやいていたのが始まりだったのではないか、だとしたらツイッターこそ言語の先祖返りだ、と以前考えたが、それに続く話。
こんなことを考えたのは、『記憶する道具』(美崎薫)という本を読んでいるからだ。一般に、言葉を読めば言葉を書きたくなるのはあまりに自然ではないだろうか。「売り言葉に買い言葉」というのも同じこと。
しかし以上は一般論。本当は、この『記憶する道具』があまりにも素晴らしい刺激を与えてくるから、なにか書かずにはいられないのだ。このようなところに狙いを定めた本は他には存在しない。…強いて言えばあと1冊。同じ著者の『デジタルカメラ2.0』。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070906/p1
アマゾンはこちら。http://t.co/wG8NnBZU(それにしても星1個半とはこの本の重大さにまったく気がついていないとしか思えない)
なお最近『クローズアップ現代』が著者の美崎さんを取材していた。https://t.co/kqe5tRU6
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★記憶する道具/美崎薫
=同書のランダムなメモを以下に記す=
*ある特殊作業者による脳と記憶の観察記といっていい。記録の技能を極めることによって記憶の正体(その深さもしくは意外な浅さ)を見極めようとする作業。
《人生のどの程度がオリジナルの記録すべき特別な体験であるかは、よくわからない》
《あるときそれが突発的に、なにか特別なものに変わってしまうのである》
だから著者はライフログという言葉を積極的には使わないと述べる
身体的な記憶。自転車にのったいたとき、毎日使うルートにある段差、歩道、ライン、マンホールまでを憶え、できるだけ段差のない最適なラインを見つけることができるようになった。しかし、その記憶は、毎日完璧に再現できるわけではなかった。ちょとした体調やスピードの違いなどで、最適ラインは逃してしまう。要するに、身体的な記憶は言語化しにくい。それを記録し再現することはむずかしいだろうと思う。
100万を超える画像など、大規模なデータベースに毎日直面している。死蔵しているわけではない。ろくに動かないデータベースでは役にたたない。
OCRが優れているようにおもうのは、ひとの「めくる」「あたりをつける」能力を過小評価しているから。実際に100万枚をめくってみてわかった。
動的で編集可能なハイパーテキスト。即座にその場で思いついたことを書き加えることができる。
引用することも自由自在。リンクをすることもできる。ウェブブラウザは、いつのまにか、編集機能がおきざりになった。
《編集することによって、その情報を自分の考えと融合させることができる。そこではじめて自分を表現できる。逆にいえば、Webでは自分を表現することが困難だ。ダイレクトに行うことができないからだ。
ここでいうハイパーテキストとは、テキストを超えたものの意味である。テキストとは、長短取り混ぜた文章のことで、わたしの場合には、日記や手紙、メール、書類、原稿、ブログの原稿、小説などが含まれている。それらが、わたしのシステムのなかでは渾然一体として群れを作っている。
基本的には、動的に編集可能なハイパーテキストをイメージしてほしい。
渾然一体としているといっても、ランダムにつながっているわけではない。体系ははっきりしていて、たとえば軸として存在するのは時間軸(時刻や季節)、ひと、場所、関連するテーマなどである。
このうち各種のテーマは、自分の興味関心、研究や仕事の軸と直結しているので重要であるが、汎用性がない。汎用性がないので、わたしにとっては重要であり、おなじテーマや関心の近いひとには役にたつかもしれないが、ほとんど無用の長物なのである》
*美崎さんがウェブをあまり重用していないように思われることの理由がわかった気がする。
*それ以上に、脳にかわるツールとして、パソコンはまったく不十分ということだ。
*しかし美崎さんだけは、脳にかわるツールを、マジに作りつつあるのではないか?
ハイパーテキストの機能を自動化するのは、プログラムとしてはとても簡単。それが実現されなかった理由は何なのか。ニーズが存在しないのか? *興味深い問い
美崎さんが実作したシステムは、カレンダー式。
《人生という長い旅をともにするシステムとしても、カレンダー型写真情報提示システムは有効だろうと思う》
無尽蔵なのは錯覚か?
《あるけれども表現できないものは、あるかないかといえばないと位置づけるほうがよい。見つけて表現できるまでは、ないと考えるのである。ないとしても、ある特定のシチュエーションによっては、再度生まれてくるのであり、それまでは水面下にあり、認知できない。
はたして、それは従来考えられてきたほど大きくて無尽蔵なのだろうか。
単独で脳だけで憶えている記憶と、記録によって呼び起こされる記憶との間には、差はない。むしろ、脳だけで覚えていると思っていた記憶のほうが、あやふやでありえないもののように思えてくる。
底なしに深くて広い湖のような感覚はあっても、ほんとうにそれがそうなのかどうかはかなり怪しい。卑近な例では、『記憶スケッチ』というアイデアがある。お題に沿ってなにかを書き表すと似ても似つかないものになる》
*これも重要な指摘。脳は無限だったり神秘だったり魔法だったりは実はしないはず。
*ただ、茂木さんがいうように、脳のおもしろさの本質は、可変であることだろうか。オープンエンド的というか。
《たとえば、ねこがこつんと頭をすりつけてくるときの感覚、やわらないようなけっこう力強いようなその感覚は、その瞬間になってみないと思い出せないくらいありふれた日常的な体験である。それをなんと名づけたらよいのかはわからないが、それは何度もくり返せば、自分のなかに体験として染みついて、忘れ難いものとなる。便宜的に、たとえば『ねこ頭コツン』と名づけてもよいが、それは一般的に使う言葉ではないから、ほとんどすぐに忘れ去られる。そのような体験を、人間はわざわざ意識しなくても、無数にしている。
それを、別の追体験あるいは再体験すると、「ああ、このこれは、特別なものなのだ」と気づく。追体験なくして気づきはない、といってもいい。それに気づくことで、世界へのつながりが見えてくるのである。
このつながる体験は、追体験した過去の量が一定量(一〇万件くらい)で発生するようになり、それ以降数えてみると、年間に五〇〇件ペース、すなわち一日に一件以上の数で起きるほどひんぱんに起きていることがわかっている。これこそが人生を記録するシステムの醍醐味なのである》
*こんな事実と経験を数値をあげて示せるのは美崎さんだけだろう!
《全情報を記録して再現できれば、長期的には脳の記憶の機能は貧弱になるかもしれないし、脳は違うことに向かって発達して、もっと違う可能性が出てくるかもしれない。可能性としてのバーチャルな時間と、リアルな身体の時間との乖離は、なにか別の予期せぬ問題を起こす可能性もある。
実験での可能性だけでなく、現実に、携帯電話により全人性記録は、予想以上の速度で進んでいる。携帯電話とGPSなどの位置情報サービスを組み合わせれば、いつどこにいたかはほとんど完全に記録可能なのである》
(そして結局)《データさえ蓄積できれば、あとはそれを見るアプリケーションが出きるだけで、容易に記録は記憶に摂って代わるだろう。記憶が保持できる容量は限られ、新しいことを見ればそれを記憶してしまうものだからだ。》
連想しつくす
《可視化することで体験を取り出し、その体験にひもづけできるものをすべて抜き出し、体系化することをつづけた》
(そうした結果)《タペストリーがどの程度複雑であるかは、容易に想像できる。そなわちそれが先のハイパーリンクなのである。ものごとが直接つながるものは局面を限れば限ることができるが、三階層たどるとほとんど無数のものがつながっていく。
階層をたどれば無数のものとちながるが、たどらずに一階層だけ、直接関係したものだけを見ると、想像力や記憶の糸は広がらないこともある》
*こんなことも言う
《連想できる限りの連想はすでにし終えた気がしている。体系はもうすでにあって、新しいことはその体系を置き換えるほどのインパクトはもっておらず、小規模で部分的な改変にとどまるような印象だ》
《集中的に二年にわたって記憶の再構築を行ない、それ以降も継続的に行っているにもかかわらず、どうしても思い出すことができず、原点を明らかにすることもできず、資料を見つけることもできないで失われたまま補完できない例が、わたしには九例ある。
わたしはすべての記憶は外部からやってくると考えられている。そうだとすれば、この九例は、その外部から得たものを現在は失っていて、まだ見つけられていない状態にあることを意味する》
モノは見つからない。この九例にはデジタル化になじまないものは含まれていない。なくした財布などは見つからないものだ。しかし記憶をなくすのに比べると、あまり重みがないようにみえる。
月単位でも構造をもつ。イチゴは一月 サンマは一〇月。時間軸に対する感覚を空間的に配置してわかりやすくするのがカレンダーのもつ特徴。
《頭を完全にからっぽにするまで、思っていることをすべて書き出すと、ふたつのことがわかってくる。
ひとつは頭を煩わせていたと思ったはずの事柄が、それほど多くはないことである。いまその瞬間に思っていることをぜんぶ書き出しても、一〇〇個も二〇〇個にもならない。書いて連想して増えることはあるが、それは別の話である》
《記録された情報は、ハイクオリティで高い質感をもって、いつでもプレイバックできる。高い質感は現実の体験とほとんど区別できない。まして体験がコンピュータを介して行なったことであればなおさら、オリジナルの体験とプレイバックした追体験の区別はない。
わたしは、この当初の体験を体験しながら、追体験を容易にできるようにタグを自動で記録して体系を作り、追体験を当初の体験と同様に感じられるようにしたツールを作っている。
わたしの定義する記憶とは、体験あるいは記録を解釈する解釈の方法である。通常記憶とは自分の内部にあるものを意味するようだが、記録と覚えていたものという意味での記憶との差が小さくなる、あるいは記録が充分多くなりすぎて、その影響を受けないで単独に記憶だけを維持できるシチュエーションがなくなっていく現代にあっては、記憶とは解釈のことである、と再定義するほうが、より記憶の定義として汎用性をもちうるように考えるのである。》
*恐るべき著書、恐るべき実験、恐るべき思索、恐るべき結論! 唯一無二の本だ、やっぱり。
*第二、三章はいくらか飛ばし読みだった。
*第四章以降は読んでいないので再読すべし。