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【2019 輪廻転生】

脳内シナリオライター

脳にある海馬が記憶に関係することはよく知られている。

たとえば「学校に遅刻しそうになったので、トーストをくわたまま家を飛び出し、路を走っていたら、角で見知らぬ女生徒とぶつかった」……みたいな出来事を、私たちはしっかり憶え、ありありと思い出す。この種の記憶を「エピソード記憶」という。このとき不可欠の役割を担うのが海馬だ。

ただしエピソード記憶が成り立つには、そもそも口にくわえているのが「トーストであること」や、ぶつかったのが「女生徒であること」も知っていなければならない。これらは「意味記憶」という。意味記憶では海馬が中心に働くわけではない。「トーストであること」や「女生徒であること」は、エピソード記憶とは異なるしくみで記憶されるのだ。

ではエピソード記憶意味記憶の関係は……? 脳においては、女生徒などの「人の顔」を記憶するときによく活動する部位というのが決まっている。家や学校といった「建物」を記憶するときによく活動する部位もある。そうした個々の部位を、まったく別の部位である海馬が結びつけ、初めてエピソード記憶が成立する。

――そんなことが『心の脳科学』(坂井克之著・中公新書)という本に書いてあった。
 心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)

読んでいて私ははっと思った。海馬こそ「物語」の源泉なのではないか!

だいたい「学校に遅刻しそうになったので…」といった出来事はけっこう複雑で長い。それなのになぜ、かくも鮮やかに憶えられ難なく思い出せるのだろう。不思議だ。

その理由はまず「自分の体験」であることが大きいようだ。それに比べて、たとえば「電圧V÷電流A=抵抗Ω」とか「平治の乱の勝者は平清盛」といった意味記憶はそうではない。また、エピソード記憶には「感情が伴う」という特徴もある。一方、オームの法則や武士の由来を勉強してもあまりわくわくした気持ちにはならない。

そして何より、エピソード記憶は「納得のいく因果や順序をもったストーリー」として書き込まれ読み出されるように思われる。要するに物語だ。記憶と想起がスムーズなのはまさにそのおかげだと思われる。

これに関連する決定的な事実がある。海馬は記憶だけでなく想像にも不可欠だというのだ。つまり、海馬が壊れると、ストーリー的な記憶ができないだけでなく、なにかを自由に想像しようとしてもストーリーにならない。(以下、同書が紹介している例を引用)

たとえば、「あなたは南国の真っ白な砂浜のビーチで寝そべっています」という場面について、さまざまな情景を想像して言葉で言い表すように指示する。

すると、海馬が健常な人は次のように答える。

「ああ、とても熱くて日差しが焼けつくようだよ。体の下の砂がやけどしそうなくらい熱くなっている。砂浜に打ち寄せられるさざなみの音が聞こえてくる。海は本当にきれいなアクアマリンブルーだ、私の後ろにはヤシの木が生えていて、そよかぜに吹かれて葉のざわめきが聞こえてくる。左手には砂浜が弧を描いてその先は岬になっている。そこにはいくつか木造の建物が建っている。誰かの小屋かな。それともバーか何かかな。ビーチの右手は大きな岩がごろごろしている。そっちのほうには誰もいない……」

一方、海馬に障害がある人は次のように答える。

――うーん、見えるものといったら空だけだな。かもめの鳴き声が聞こえる。それから海の音も。指先には砂の感触があるな。えーっと、それから船が汽笛を鳴らすのが聞こえてくる。まあ、そんなところだな。
――実際にその風景が浮かんできますか。
――いいや、目に浮かぶのはただ、空の音だけだ。……うーん。それだけだな。あとは音が聞こえて……。

どうだろう。「海馬が物語の源泉だ」と言いたくならないだろうか。

さらにここから気づくべきは、海馬は「見てきたような嘘をつきそう」ということだ。それどころか、本当に見てきたことも類型的なストーリーに修正してしまうのではないか。体験とは本来は多数の断片なのだろうが、海馬はそれをまとまりよく1つの物語に仕立てるのかもしれない。憶えておきやすいように。思い出しやすいように。

この世の事象を私たちはつい物語として受けとめる。ある朝のちょっとしたときめきも。宇宙の生成も人類の歴史も自分の人生も。いずれも納得のいく因果や順序で展開しているものだと感じている。実際はべつに起承転結をもった物語ではないのかもしれないのに。

小説にもふつうストーリーがある。推理小説歴史小説はもちろん、どんな無愛想な小説でも私たちはそれをできれば物語として楽しもうとする。文章のジャンルが異なる報道記事や研究論文にもストーリーはある。だれもが何気なく書いているブログや140字のツイッターも、なぜか物語になりたがる。

言語でなにかをまとめようとするとき、どうしても抜け出せない枠組みがいくつかあると感じられる。その1つを「物語」と呼びたいと以前書いた。それは「論理」や「文法」と同じくらい強力な縛りだ。そしてそれらが何に由来するのか、ずっと気になっていたのだが、このたび「物語の源泉は脳であり海馬であるかもしれない」と気がついたのだ。


◎参考(1):私を引きずる言語を引きずる論理と物語 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060909/p1
◎参考(2):言語の限界 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070716/p1


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平清盛保元の乱後白河天皇の信頼を得て平治の乱で最終的な勝利者となり武士として初めて太政大臣に任ぜられた」「……は? なにそれ」

平清盛でなく坂本龍馬の生涯ならありありと思い出せるのは、大河ドラマを欠かさず見て、まるで自分が体験した出来事みたいになっているからではないでしょうか。


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話は飛ぶ。たとえばモーツァルト交響曲第40番のメロディーとかも、私たちはけっして忘れない。鼻歌にすらできる。なんというマジックか。音楽もまた物語なのだろうか? たしかにメロディーやコードの展開には定番のストーリーがある。シェーンベルク交響曲とかはなかなか鼻歌にできないのは、ストーリーに収まりにくいからかもしれない。さてでは、音楽があみだす物語は、言語があみだす物語とはまた別物なのか? それは海馬も知らないことなのか?(また次回)

◎参考(1) 言語のゆくえ2010 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20100129/p1
◎参考(2) 言語のゆくえ2010 (5) 〜さらに音楽へ〜 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20100325/p1
◎参考(3) 音楽にも「普遍文法」? http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080323/p1


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なお『心の脳科学』(坂井克之著・中公新書)は、もちろん「物語がどうのこうの」という本ではない。「わたし」という意識はどのように浮上するのかという問いを立て、脳画像を使った研究などから探った一冊。海馬と記憶の知見にもその問いから迫っている。ほかにも驚くようなことがいっぱい出てくる。良い本だ。また同じことを言うが、中公新書は見かけもタイトルも地味なのに、いつも学術的な中身が充実し期待を裏切らない度合いが大きいと思う。

◎タイトルでも引きつけるための参考:http://portal.nifty.com/2011/09/29/c/5.htm