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【2019 輪廻転生】

たしかに「わたし」とは視覚や記憶や知能でないはずがない


★心の脳科学 ―「わたし」は脳から生まれる/坂井克之

心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)


いわゆる、「わたし」とは何か。今さらの問いにも思えたが、読んでみると、脳がやっていることの意外性を次々に教えられた。脳科学のおそらく最新の成果を大切に組み立て、一歩ずつ慎重に「わたし」に歩み寄る印象。結果的に、「わたし」とは何かをつきとめるために不可欠な視点のポイントを知ったように思う。

まず視覚をめぐる脳科学の成果が詳しく示される。たとえば、顔、建物、あるいは文字など見ているものに応じて大脳の活動領域が異なるという事実。脳はそこまで分業しているのかという驚きと、脳科学はそこまで実証しているのかという驚き。

記憶と海馬に関する指摘もきわめて興味深い。ここから私は「海馬こそ物語の源泉ではないか」と思った。→ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20120317/p1

話はさらに広がって、知性とは何か、社会的な脳とは何か、遺伝子はどこまで脳を規定するのかといった問題にも切り込んでいく。どれも期待を外さず妥当な見方が示されていると感じられた。そして最後に「わたし」について改めて考える。総論としてこの本はあくまで「わたし」とは何か、なのだ。


いくつか引用。


《文字を読む能力は、既存のサルの脳にも存在している脳領域をうまく利用して、文字の識別からその意味処理までを行えるようになったという考え方が有力です。
 そのように考えるならば、文字を読むという新しい能力は、新たな脳領域の出現というよりは、脳領域間の線維連絡の変化によって獲得されたと言ってよいのかもしれません。発達や学習によって脳活動パターン、あるいは脳の機能的な構造が変化するといっても、そこには脳組織本来の解剖学的構造による制約が存在します。脳の中の特定の場所に顔領域や文字領域が存在するのはなかば必然なのです》


《脳の視覚領域には、外界を自己の内部に表象する役割だけではなく、自分の経験や意図に基づいて外界を解釈する役割もあるようです。脳の視覚領域は、鏡というよりアナリストなのです》


「自我がなぜ目の奥に存在しているように感じるか」という刺激的な問いと、いっそう刺激的な答え!(以下)

《「わたし」を身体から離脱させる試み》《目の奥に自我が存在するという感覚は(本当は幻想なのですが)、自分の自我は、自分では見ることはできないという強固な仮定の上に成り立っているのではないでしょうか。自分の手足は目で見ることができます。その時点でこの手足は自分自身の体ではあるけれども、自分の自我が存在する場所ではないと感じるわけです。だって手足が見えているということは、それを見ている「わたし」はそこにはいないはずです》


海馬が仕事をしていないとうまく思い出せない(以下)

《こうした実験を通して、あとで正しく思い出せた単語を覚えているときには、海馬が強く活動するものの、思い出せない単語では、海馬はあまり強く活動しないか、あるいは活動が見られないことが明らかにされました》

記憶の知見が、「わたし」の成り立ちを考える際に、どう結びつくかのまとめ(以下)

《情報の断片としてではなく、ひとつのエピソードとしてまとまった形でひとかたまりの記憶を構成することによって、自分の体験としての記憶を思い出せるのです。
 特に自分自身に起こったエピソードを追体験するときには、この過去の出来事の中に身を置いた自分自身の存在が感じられます。過去に現在の自己を投影するメカニズムも脳の特定の場所の働きによって可能になっているようです。そしてこのメカニズムは過去の記憶にとどまらず、未来を生き生きと想像する場合にも働きます。過去、現在、未来へといたる時間軸の上で自分自身という存在を認識できることによって、自我の同一性が維持されるのかもしれません》

「わたし」とは何かを問うなら、そもそもはっきりさせるべきことがたくさんある。記憶の仕組みなどがそうだ。それを同書は示している。すなわち、記憶が成り立つ前提(たとえば、ひとかたまりの自分の体験としての記憶が存在していること)や、記憶が成り立つ原理(たとえば海馬のはたらき)だ。その絶妙さをかみしめると、「わたし」とは何かの問いは、いっそう輝かしく見える。

このほか、自分で撮影した写真をみるときだけ活動する前頭葉の領域があることも紹介されている。《自分自身の記憶を呼び起こしているときには、海馬に加えて前頭葉の内側の部分が活動することがわかりました》(別の人が取った写真をみているときは活動しない)


脳が私を構成するとき、無意識の操作と意識的な操作の2つをミックスさせていると考えられることも指摘されている。話は非常に複雑になる。しかし複雑なものを明らかにするためには、複雑な問いに立ち向かわなければしかたない。そういうなかで、著者はまずこう問う(以下)

《「自我」という仮想的実体が働くその原理を明らかにするために、まずその働きかけによって実現されていると思われる私たちの「思考」のメカニズムに焦点を当ててみましょう。この節では、特に「思考」の中でも最も高尚なものとして定義された「知性」に焦点を当てて、これを制御する仕組みについてお話しします》

そのなかで、知能とよぶべき働きと脳の前頭葉などの活動との関連が指摘される。そうしたことも脳科学はすでにはっきりさせてきているのだということを知る。


さらに、ドパミンと自我の関係にも言及している。捨て置けない。ニューロン群の特定パターンに重み付けを行うこと、すなわち脳の可塑性という最も重要な特技に、ドパミンによる報酬の仕組みが大きく関与しているのかもしれないのだ!

《思考し、行動する主体としての「わたし」とは、ドーパミンという化学物質によって実体化された報酬情報に過ぎないのでしょうか。おそらく単一の脳領域だけではなく、脳全体のなんらかの形の神経ネットワークの状態が「わたし」という存在を実感させているのでしょう。その具体的な様相を明らかにするのはこれからの仕事です》

このことはもっとすっきりじっくりわかりたい。


こうした、知性と「わたし」の関係のまとめ=第6節「知性を制御する仕組み」の結論=(以下)

《外界から受け取った情報を脳の中でさまざまな形、おそらくはその人の行動目的、報酬に沿った形に変換し、新たな情報を生み出します。このようにして生み出された世界が私たちの心の内面であり、この存在によって私たちは「知的」存在となったのでしょう》

すぐに続けて:《思考とは、脳の中の情報変換プロセスであり、これは私たちの意思、主体的な実在であると私たちが幻想を抱いている意思の制御よりも先行して、無意識のうちに進んでいます》

《実際に変換され新たに生み出された情報と、生物としての報酬信号が合致したとき、意識されうる形としての「わたし」が生まれるのかもしれません。知性を制御する存在としての「わたし=自我」とは、脳が作り上げた一種の説明原理のようなものではないでしょうか》


脳と心、脳と「わたし」を考えるには、こうした簡潔にして納得のいく見取り図(総論)が必要であり、ここにはそれが示されている。


遺伝子の研究としては、記憶能力を左右するBDNF、感情をつかさどるセロトニントランスポーター(5-HTT)の話。うつ病に関連してよく指摘されているが、脳科学としてかなり明白な知見が定まっているようだ。