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【2019 輪廻転生】

言語の起源と進化(1)



人間失格=サル ?

今年は太宰治が生まれて100年目だが、その100年前にはチャールズ・ダーウィンが生まれている。

人間もかつてはサルみたいなものだったということを、『種の起源』以前はほとんど想像しなかったのだと考えると、すごいことだ。

もちろん今や、遺伝の実体までがDNAを基盤にして明白となり、当時のダーウィンからしても「クローン羊? 遺伝子治療? それってイーガンのSF?」かもしれない。

とはいえ、ダーウィンを契機に、あらゆる進化が「変異+淘汰」というたった2つの原理でとりえあえず説明できるぞということに、我々は気づいた。この一撃こそ人知の全身にダメージ(?)を与えたのではないか。そのボディブロー効果は今後ますます顕著になっていくだろう。

言語もまた進化という観点からの探究がにわかに浮上しているようだ。たとえば、岩波の雑誌『科学』が2004年7月号で「言語の起源」という特集を打っており、その一端を伝えている。最近知って読んでいるが、その中身はまたいずれということにして、以下は自分でめぐらせた思いを中心に記す。


●言語が初めて羽ばたいた時

鳥類の翼は、その祖先である恐竜の一部に生えていた羽毛から進化したとされる。もともと体を温める用途だった羽毛が、やがて大空を飛ぶ用途に転じていったと。これと同じように、人間の言語も、サルなどとの共通祖先がもっていた別の何かから進化したと考えることができる。別の何かとは、外から分かるものとしては叫び声などだろう。

このとき、祖先の叫び声と我々の言語とは、そもそも別の能力ではなく同じ能力ではないかと言いたくもなるが、そこは断絶していると捉えるのが研究者たちの共通認識のようで、根拠もだいぶはっきりしている。(ここはけっこうややこしく、シンボルとか統語とか再帰といった作用は人間の言語にしかないという話になるのだが、それについてはまたいずれ)

もちろん、祖先の未言語から我々の言語へと継続されてきた用途を探すこともできる。代表的には「コミュニケーション」や「思考」としてくくれるようだ。(一般の私たちにはこの継続部分をみたほうが祖先の心は想像しやすいか)

そのうえで、祖先の未言語が我々の言語にどのようにジャンプしたのかを考えるのが「変異」の考察であり、そのようにジャンプするとコミュニケーションや思考にどのような得があったのかと考えるのが「淘汰」の考察ということになろう。(これについて研究者がどう述べているかについてはまたいずれ)


●言語のインフラも進化?
さてさて、祖先の未言語と我々の言語との相違だけでなく、太古の人類に初めて備わった言語と現在の言語とがどれくらい違うのだろうと考えるのも、また楽しい。

そもそも、人類と呼ばれる生物がいつごろ言語と呼べる能力を備えたのかは、よく分かっていないようだ。ただ、今から数万年前に我々ホモ・サピエンスがアフリカから世界へと広がった時点ではさすがに芽生えていただろうとか、我々とは系統の異なるネアンデルタール人はもっていなかっただろうとか、いろいろ言われている。

ともあれ、そこから時代はそうとう下って、たぶん音声しかなかった言語に「文字」が伴った。すると以後はけっこうあっけなく「活字とそれによって印刷された書物」も発明される。言語がそのつど担っていた中身はさておき、言語を支えるインフラとしてはこの「文字」そして「活字書物」の誕生は決定的なジャンプだったと考えて間違いないだろう。そうなると、当然のことながら、現在は「インターネット言語」の時代だ。(またこの話? と思われるかもしれないが、私としてはこの話は100回繰り返したい)

というわけで:

【小論文】「文字言語」「活字言語」に続く「インターネット言語」の出現によって、言語はいかに進化したか、記せ(2000字)

私は受験生ではないので、制限時間も制限字数もなしに考え続ける。今日のところは「ブログなんかやって何になるわけ?」という自問。さっきの「思考」「コミュニケーション」という観点からちょっとだけ顧みる。


●インターネット言語で思考は進化する?

ともあれ、自分がそのつど考えたことをまとめたり残したりするのに、ブログはけっこう役立っているだろう。「思考の整理」や「思考の記録」といったところか。

その際、インターネットによって「検索」と「リンク」の機能が革命的に飛躍したという点は、もはや言うまでもない。単なる文字や単なる書物の時代を明らかに凌駕している。言語のインフラはインターネットによって紛れもなく進化した。(追記:その結果、言語を使った思考の要領や方式も奇妙に進化していると感じられる)

ただし、祖先の未言語や人類の初期言語が、主に思考の用途に使われていたとみる研究者は多くない。やはりコミュニケーションの用途こそが進化のカギだったと考えられているようだ。それはじつは、現世に至った人類のインターネット言語においても同様と思われる。 


●インターネット言語でコミュニケーションは進化する?

では私のブログはコミュニケーションに役だっているんだろうか? 自己顕示のようなものを含めて、あるいは相手を特定しない場合も含めて、いずれもコミュニケーションとみなせば、やっぱりこれはずっとコミュニケーションのためにやっているところはある。とりあえずはそう思う。

また、コミュニケーションの道具として、インターネットはかつての時代の文字や書物に比べて格段に便利であることもまた、言うまでもない。言語が伝わっていく範囲が空間的にも時間的にも無限でありうるというのも、やっぱり途方もないことだ。

そのおかげか、インターネットではコミュニケーションがむしろ過剰なんだとの指摘もある。つまり、伝達される情報はたいして無いのに、私とあなたがやりとりをしているという意味だけのコミュニケーションがひたすら連鎖して膨大になっているということ。特に携帯メールやミクシィなどでこの傾向は強いのだろう。なお、進化と退化は環境に適するか否かの違いであって価値判断ではないのだから、これも言語インフラもしくは言語使用の進化とみるべきだろう。

そうすると思い起こされるのは、サルたちの毛づくろいみたいなものが進化して人間の言語になったのではないかという有名な説だ。ダンバー『ことばの起源―猿の毛づくろい、人のゴシップ』だ(asin:4791756681 私は未読)。なんでもサルは毎日1〜2割の時間を毛づくろいに当てるという。必ずしもノミをとっているわけではない。毛づくろいはコミュニケーションの手段であり、それによって互いに仲間であると確認しているらしい。これが人類ではどうなるか。「毛づくろい」が「おしゃべり」に進化する。音声は複数の仲間たちに一挙に届くため、コミュニケーションの道具として毛づくろいより優れており、そのおかげで人類は、毛づくろいでは手が足りない数の仲間ともコミュニケーションでき、大きな集団の形成が可能になった。そんなような説。

「たいした話もないけど、つながってるよね」。おしゃべりはたいていそのような用途だろう。その言語コミュニケーションは、インターネットという巨大かつ高度な言語インフラを得ていっそうバブル化した。それが現在だとしても、言語の起源なんてそもそもがどうせその程度のものだったかもしれないのだ。


●インターネットの変異と淘汰

「変異+淘汰」ですべてが「進化」として説明できそうに思える、ということを冒頭で述べた。インターネットがまた、変異と淘汰の条件をみごとにそろえているように見える。

技術革新や起業競争は今もとどまるところを知らない。まさに突然変異と自然淘汰を凝縮して見ている気がしてくる。その結果、まさかと思うようなサービスがいつの間にか当たり前になっている。ソーシャルブックマークやコメントなどもそうした進化に拍車をかけているのかもしれない。

また、人間の言語はもともと思考やコミュニケーションの役割だけでは語れないが、インターネット言語こそ、いっそうわけのわからない用途へと進化し続けているとも言える。「電車男」とか「空から女の子が降ってくる」とかもそうした新種なのかもしれない。http://q.hatena.ne.jp/1231366704

(続く)