東京永久観光

【2019 輪廻転生】

新ホモサピエンス


親の経験を子が文化として受け継ぐことができるのは、ホモサピエンス以外にはほとんど例がないことが知られている。

しかしそれは経験をまめに記憶し伝達してこそであり、人類全員がズボラだったらかなわないことだった。

ところが近ごろは、たいていの経験はログとして記録され一気に閲覧できるので、どんなにズボラでも文化として伝わりうる。

これを進化と呼ばずして何が進化かと思う。私たちは新ホモサピエンスの誕生を目撃している。

そういうこと(マジで進化したんじゃね?)を、20世紀に私たちは真面目に考えたことがあっただろうか。たとえば夜に電気がついたとき、車を運転してみたとき、家にテレビがきたとき…などなど。

要するに、文化を伝えられる私たちは、文化を伝えないサルやネコより圧倒的に有利だ。

ただしその一方――。私たちは文化を自由に変えることはできても、遺伝子を自由には変えられない。その点、遺伝子(プログラム)をいつでも変えられるロボットや人工知能は、私たちよりはるかに圧倒的に有利なのかもしれない。


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「進化」とはふつう遺伝子変異によるものだけを指すとおもうので、ここでは定義を変えているわけだが、たとえばドーキンスも進化の範囲をずっと広く捉えている。


私は『利己的な遺伝子』で、人間は現在まさに新たな種類の遺伝的な乗っ取りの入り口にたっているのかもしれないと推理した。DNAという複製子は自分たちのために「生存機械」、つまりヒトも含めた生物の体を組み立てた。体は、その装備の一部として搭載型コンピューター、つまり脳を進化させた。脳は、言語や文化的な伝承という手段で他の脳と交信する能力を進化させた。だが、文化的な伝承という新たな環境は、自己複製する実体に新たな可能性を開いた。新しい複製子はDNAでもなければ、粘土の結晶(*DNAはもともと無機物だったかもしれないという話を踏まえている)でもない。それは、脳あるいは、本やコンピューターなどのように脳によって人工的につくり出された製品のなかでだけ繁栄できる情報のパターンである。しかし、脳や本やコンピューターがあれば、遺伝子と区別するために私がミームと名づけたそれらの新しい複製子は、脳から脳、脳から本、本から脳、脳からコンピューター、コンピューターからコンピューターへと広がって行ける。情報のパターンは広がりながら変化する、つまり突然変異を起こすこともある。そして、おそらく「突然変異」ミームは、私が本書で「複製子の力」と呼んでいる影響力を発揮できるだろう。この力というのは、自らが増殖される可能性を左右するあらゆる種類の影響力を指していたことを思い出してほしい。新しい複製子の影響下での進化――ミーム進化――はその揺籃期にある。ミーム進化は、文化的進化と呼ばれる現象に現れている。文化的進化はDNAにもとづく進化より桁違いに速く進むので、「乗っ取り」ではないかと思わせるほどである。新しい複製子の乗っ取りがはじまっているのなら、その親であるDNAを(ケアンズ=スミスが正しければ、その祖父母の粘土も)はるか後方に置き去りにするところまで進んで行くだろうと考えられる。そうなると、コンピューターが先頭に立つのは確実だと言えるかもしれない。
 遠い未来のいつかある日、人工知能コンピュータたちは自分たちの失われた起源に思いを馳せるのだろうか? そのうちのあるものは、自分たちの本体の珪素を基礎にした電子工学の法則にではなく、有機的な炭素化学にもとづいた、遠い日の初期の生命形態に自らの出自があるという異端の真理に気づくだろうか? ロボットのケアンズ=スミスは『電子工学的乗っ取り』という題の本を著すだろうか? 彼は電子工学版の「アーチのアナロジー」を再発見し、コンピューターは自然に出現したのではなく、先行する何らかの累積淘汰の過程に由来するにちがいないと気づくだろうか? DNAを初期の複製子の有力候補、電子工学的な強奪の犠牲者として詳述し、見直すだろうか? そして、そのDNAさえもさらにはるか昔の原始的な複製子だった無機的な珪酸塩の結晶に対する強奪者だったかもしれない、と推理するほどの洞察力をもっているだろうか?》(『盲目の時計職人』日高敏隆訳)

★盲目の時計職人/リチャード・ドーキンス  
 盲目の時計職人
◎過去の感想 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070303/p1