東京永久観光

【2019 輪廻転生】

凡庸というか中庸?


平野啓一郎決壊』 その後。(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080828#p1の続き)

悪魔と称する人物が大阪駅に現れる。そして人が人を殺すことに必然性を見いだす論理、および、いかなる殺人なら真に有力であるかの戦略などを語り出す。私は結局このような展開を待ってこの小説を読んでいたのかなと、まずは思った。

《いいかね? 人間とは、単なるデータの束だ。そして、その束のあり様が、たまたまあなたの場合、殺人者であるために最適だった! 世界は、直接には感じ取れないような、ありとあらゆる細微な作用を、多年に亘って、偏執狂的に根気強くあなたに及ぼし続けて――そう、遺伝のための気の遠くなるような時間と、個体の成育のための、あなたのせいぜい十数年!――、ようやく植え付けられた一個の殺意を、今、活性化することに成功しつつある。あなたの固有名詞をラベルとして貼ってね。》

《そのうちに、多少知恵のある人間は、気がつくものだよ。結局、遺伝と環境の不公平はどうにもならない、と。努力次第で人生は変わる。そんなものは、まったくのデタラメだとね。最初から与えられている人間のようにはなれない。絶対に。そうして自分が、依然として、磔にされたままだということをイヤというほど思い知らされるだろう。――それでもこの世界にしがみついていたいのなら、精々、ネットに惨めな恨み言でも書きつけながら、ただ、大多数を占める、持てる者どもだけが住みやすい世界のシステムに隷属し、その強化にさえ手を貸しながら、完全に無意味な性を生きなければならない!》

《いいか? 一対一で、一人の人間が一人の人間を殺す。こんな方法は無意味だ。我々は、一個の主体として殺人を行ってはならないのだ。そうではなく、純化された殺意として、まったく無私の、匿名の観念としての殺人を行う。この世界があなたをターゲットにして活性化するそれを、あなたの固有名詞に於いて引き受けてはならない。そのまま、世界の殺意として現前させる! 世界はそこでアテが外れるわけだ。押しつけるつもりだった人間が、スルリと逃げてしまって、ただ殺人だけが起こる。すると、この世界それ自体が、殺意を引き受けざるを得なくなる。》

カラオケボックスで中学生を相手に悪魔が長々と開陳しているのは、こんなような内容。

周到に練り上げられた主張だと感じられた。しかし、私たちはこの主張をそのとおりちゃんと理解でき納得すらできる。それはつまり、私たち自身が日々これくらいのことは十分考えているからなのだとも思った。作家平野啓一郎が私たち読者と同じくらい凡庸だというのではない。そうではなくて、この問題に関しては、もう私たちも平野啓一郎と同じくらい優秀なのだ。それくらいこの問題は私たちに身近であり切実なのだ。こうした問題に関する知識や見解が満ちあふれ、さらに峻別もできるほどの言語環境に、私たちは今いる。

だから、上の悪魔の主張を、たとえば今日のはてなに発見したとして、はたしてあなたはブックマークするだろうか。スターをつけるだろうか?

たとえば同じ日のはてなでブックマークが集中した次のエントリーと比較して・・・

3種類のクズがホームレスになりやすいhttp://d.hatena.ne.jp/kajuntk/20080902/1220341668

そして、もう一つ思ってしまったのは・・・。

この小説の作家自身はたぶん無差別殺人を実際に犯すようなことはないのだろうな、ということ。しかし、たとえば秋葉原の無差別殺人の実行者は、本当に現実に無差別殺人を実行した。そうするとやっぱり、殺人実行者たちの考えをもっと聞いてみたい気がしてしまう。(おまけのようにして言うが、アフガニスタンペシャワール会伊藤和也さんを誘拐した者たちの考えも、私はとても聞いてみたい)

とはいえ、私は小説というものを、ブックマークされたエントリーを読むのとはいくらか違った態度で読んでいることは間違いない。どう違うのかというとうまく言えないのだけれど。それと、小説の中の主張は架空だから現実の殺人者の主張より真実味や有用性が薄いと思っているわけでは、もちろんない。

それに、『決壊』はまだ上巻の終盤にすぎない。

とりあえずここまで。