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【2019 輪廻転生】

人はある日とつぜん人柄をあらわす


★人はある日とつぜん小説家になる/古谷利裕
 人はある日とつぜん小説家になる


同書が最初に言及する磯崎憲一郎氏(芥川賞作家)と著者古谷氏が対談するというので出かけていった。新宿のジュンク堂。2月20日。あたかも「デキる上司がダメなバイトを叱る図」のようで、実際はまったくそうではなく、共有する本質的なテーマに狙いを絞り、対等で混じり気のない議論が続いた。濃密な時間だった。

テーマとは、いってみればこういうこと――。小説作品にはそれを読んでいる自分のことなど何も書いてない。だいいち自分なんて世界のほんの片隅にほとんど何も知らずにいるだけの存在だ。それなのに、結局その小説が「生きられる」としたら、そのように限定された読み手を通してでしかありえない。

この当たり前だが驚くべき構図を見つめた文章は、「作品の夢がみられる場所」と題され同書の中程に差し挟まれている。このくだり実は、昨年の『偽日記』(古谷氏のブログ)にすでに書かれていた。その時も非常に新鮮に感じられ早速ブックマークしたのをよく覚えている。

《「私にとってのこの作品」と言わざるを得ないのは、「私」が大切だからではなく、私が私という位置に限定されているという、「私」が必然的にもつ貧しさによってだ》

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20091027


ところで、偽日記は長く読み続けているので、古谷氏の批評の立脚点は(それ以上に生活の立脚点も)だいぶ理解できてきた。ただ、当人の人柄だけは意外なほど見えてこない。ところがこの日は「なるほどこういう人だったのか」とついに氷解したのも吉だった。

一方、不思議なことに磯崎氏の人柄には初めて触れた気がしなかった。小説を読んでいるからかもしれないが、それ以上に、『偽日記』が磯崎氏との日常的な関わり合いについても時々書いているのを読んでいたからだと思う。人柄の評がこうであるように作品の評もきっと的確な言葉で出来ている。


同書では、その磯崎憲一郎論のほか、岡田利規論と青木淳悟「このあいだ東京でね」論を読んだ。作品をふくむ広い状況をハデに輝かせるというのではなく、まるで暗がりを探る懐中電灯のような批評だ。

東浩紀平野啓一郎との対談でこんなことを述べている。「僕の実感として言えば、批評というのは、すごくアクロバティックなメタゲームなんですね。要はだれが一番頭がよく見えるか、だれがいちばんメタに立てるかってことだけをやっている世界で、スポーツに近い」

http://www.shinchosha.co.jp/shincho/201001_talk01.html

共感できる一方で、そうしたゲームとはまったく無縁のところに、古谷利裕が一人立っていると思う。


はからずもこの日の対談は、批評家が小説家に切り込む以上に、小説家が批評家に切り込んでいた。同書にはそうするだけの価値があるということでもあろう。