平野啓一郎『決壊』を読みながらずっと感じていたのは「とにかく詳しく書いてある」ということだった。でもこの詳しさは、たとえばリチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』のあの詳しさとは「なんか違う」と感じていた。どちらの小説も、なにかの出来事や考えを描写したり説明したりしだすと、「なにもそこまで」と言いたくなるほど、やけにことごとく詳しい。それでもその詳しさは両者では質が異なりむしろ対照的に思えたのだ。
どう違うのか。
パソコンでいうと『決壊』の文章は、あるフォルダを開いたら、その中にあったフォルダはひとつ残らず開き、しかもその中のフォルダ、またその中のフォルダというふうに、階層を順々に深く深く下っていく詳しさだろうか。たとえばフォルダ「崇」の中にはフォルダ「家族」「恋人」「仕事」があり、そのうち「恋人」フォルダを開くと「千津」「美菜」「沙希」が並んでおり、その「千津」の中にはフォルダ「浴室」やフォルダ「京都」がある。・・・ちょっと茶化していうとそんな感じ。
一方で『囚人のジレンマ』の文章は、フォルダAを開いて点検しているんだけど、そもそもこのAフォルダって何のフォルダの中にあったんだっけ、そうかBフォルダか、じゃあこのBフォルダは、へえCフォルダの中にあるのか、でもCフォルダって何だろう、ああCフォルダの中にはBフォルダだけでなくDフォルダやEフォルダもあるんだ、ふ〜ん、じゃちょっとDフォルダものぞいてみるか、あれなぜかFフォルダが出てきたよ、というふうに、自らを内包するフォルダを探りながらどんどん階層を上ったり、ときおりそばで目についたフォルダをむやみに開いたりしていて、現在地が徐々に分からなくなるような詳しさなのだ。
さて問題。フォルダ「秋葉原殺人」はどのフォルダに内包されていますか。フォルダ「格差社会」? フォルダ「無差別テロ」? フォルダ「メディアと犯罪」? フォルダ「非モテ」?
リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』は、結局まだ途中までしか読んでいない。そしたらなんと次の邦訳『われらが歌う時』が出てしまっているではないか。このあいだ週刊ブックレビューでやや意外にも永江朗が紹介していた。
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◎平野啓一郎『決壊』 asin:410426007X
以前の感想:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080913#p1
◎リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』 asin:4622072963
以前の感想:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080111#p1
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(追記)
ところで、とうとう『決壊』を読み終えて一息つき、ふと本棚を見ると、山崎ナオコーラ『カツラ美容室別室』があった。これは未読の図書館本で、ああ返さなきゃと思いつつ、ちょっと冒頭を開いたら、妙におかしくて、結局そのまますぐに読んでしまった。asin:4309018408
《「桂美容室別室」の店長、桂孝蔵は、他人の髪の毛を懸命にカットしているが、自分自身はカツラをかぶっている。あまりにもはっきりと分かるカツラだとわかるカツラなので、「美容師なのに『カツラ』」というのを売りにして商売をしているのではないか? と客たちは思う。そこでいろいろ聞いてみたいところなのだが、カツラのことはなかなか本人には質問出来ないのが世の常だ。》
(実際 桂さんは頭がつるつるであることも後でわかる)
この世には『決壊』が描ききろうとした宇宙一つのみが存在しているのではないのではないか、と思わせる書き出しだったのだ。
「詳しい」という観点でいけば、この小説の文章はぜんぜん詳しくはない。たとえば、語り手のオレが桂美容室を初めて訪れ、桂さんおよび店員のエリと桃井に会った時のシーン。
《「カツラさんはなんで、横山さんを『エリちゃん』って、桃井さんを『桃井さん』って、呼んでいるんですか?」
とオレが聞いてみたところ、
「だって、そんな感じだから」
とカツラさんは答えた。》
かように、なにごともさらっとした説明なのだけれど、3者の関係が十分伝わってくると思った。ちなみに、桂さんはもうすっかりカツラさんになっている。
もうひとつ。オレはエリと軽くつきあうようになり、仕事の後で待ち合わせる。そのシーン。
《そうして、五時五十分にオレが行ったら、それよりも早くエリは着いていた。エリはいつもと同じ風体で立っている。尊大な立ち方、蓮っ葉な表情。空は明るく、初夏の気配。》
描写なんてものは、このくらいやっとけばすべて伝えてしまうのではないか、と思ったりもする。「べつに詳しくなくていいじゃないか!」
ただし、詳しくないからといって、楽に読めるからといって、書いたり考えたりした時間が少量ということはないのだと思う。上に引いた文章なども、むしろ何回も吟味し細かく細かく書き改めた末の結果であり、だからこそ目にしたとたん離れられなくなるのだろう。
斎藤美奈子も上記冒頭に惹かれている。
http://book.asahi.com/review/TKY200802050158.html
ところで、『文学界』(2008.4)に掲載された「ニッポンの小説はどこへ行くのか」という座談会で、山崎ナオコーラは「純文学という概念はこれからも打ち出していきたい。自分がこれから時代を作っていきたいと思っています」と言っている。余計なためらいやいいわけなしにけっこう大胆発言しているのが、すがすがしかった。ちなみにこの座談会はずいぶん大勢で行われており、諏訪哲史、田中弥生といった人たちがまた興味深いことを述べていた。