東京永久観光

【2019 輪廻転生】

永い夏休み


お盆は帰省して墓参りに行った。東京に長く住んでいるからというより、そもそもそういうことになじまずずっとさぼってきたので、本当に久しぶりだ。墓石に名が刻まれた私の父母は、ずいぶん早く死んだのだけれど、それと同世代の叔父叔母はいつしか70代に達している。いや、そんなことより驚愕したのは、私の従姉妹に孫が出来ていたこと(子ではない孫ですよ!)で、その3歳の女の児にも初めて会った。

ちなみにその従姉妹は、サザンの30周年記念ライブをどうしても見逃せないと夫婦で出かけており、不在だった。

日本の戦後はあまりに長く、じつは1982年『笑っていいとも』開始あたりでいわゆる戦後は終了し、その後はひたすらフラットな戦後・後がずっと続いているという説があるが(http://www.mayQ.net/junky0301.html#15)、それに伴い、音楽文化等にもいわば「世代的グローバル化」が進行していると思う。要するに、従姉妹や私はサザン抜きには人生を語れないが、その子ども世代もサザンはふつうに聴いているだろうし、その孫の世代もおそらくサザンを聴くだろう、ということ(その先頭が団塊世代ということになろう)。そのへんは戦中世代の私の叔父叔母たちとは断絶があるようにみえるのと対照的なのだ。

後期戦後の長さにはいいかげん飽き飽きしたね、とも言える。どうしたらいいのかというと、出征とか空襲とかまたあればたしかに歴史は変わるのだろう。

叔父さん叔母さんたちに会うといつかもっといろんな話をしたい聞きたいといつも考える。そしていつか、いとこたちとも、いとこの子たちとも、さらにその子とも。父母とはもう話をすることはない。私たちは、なじみの深い人と何度くらいちゃんとした話をするものなのだろうか。本当に数少ないのかもしれない(が、案外そうでもないのかなと思ったりもする)。

というわけで、日本の長い戦後とは、私の長い長い(人生の)夏休み気分に似ている。


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世間的になんとなく中途半端な者が里帰りした記録としては、こちらが秀逸で妙に胸にしみる。

http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20080812/1218468918京都から三重に帰る

先日 梅佳代の写真集『じいちゃんさま』(asin:4898152392)を手にしたら、あまりに面白く、絶対に見逃すべきではないとおもったが、「祖母の気持は分らない」(http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20080816/1218900334)も、ちょっとそんな風に面白い。

後期高齢者とは存在しているだけで価値があるのだろう。(ただし、じいさんばあさんを「かわいい」というのは、赤ん坊が「かわいい」というのに似て、自分と利害が対立しないか、少なくとも危害を与えてくる可能性がかぎりなく低いと分かっているからではないか、と疑ったりもしている) あなたを苦しめる一方の学校の教師や勤務先の経営者が後期高齢者であっても、あなたはけっして「かわいい」とは感じないのではないか。

◎逆にこういうのもあったが・・・
 ホンマタカシ『東京の子供』asin:4898150667
 参照:http://www.mayQ.net/junky0201.html#05


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郷里福井への行き帰りは、上野駅から北回りのブルートレイン北陸」を使った。そんなものがまだ存在しているとは知らなかった。JRの北陸周遊切符(北陸フリーきっぷの間違い〜訂正お詫び)とかいうのを買うと、金沢の先の加賀温泉駅まで有効で、東海道新幹線米原経由よりだいぶ安いうえに、こうして特急のB寝台にまで乗れるのだから、楽しい。中国の列車の旅をいやでも思い出した。硬臥(中国の2等寝台)は3段ベッドだったが、こちら北陸号のB寝台は2段ベッド。そういえば硬臥にはカーテンがなかったなあとおもったり。なお、北陸号には「ソロ」と呼ばれる個室B寝台もあり、なんと料金が同じなので先に売り切れてしまうのだった。

◎参考リンク
 http://homepage1.nifty.com/hodo/burutore/hokuriku/index.htm
 http://homepage1.nifty.com/hodo/burutore/hokuriku/index.htm


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一つ書き忘れていたので追加(9.4)

墓参りで私は、数珠を持った手でじつはずっとデジカメ写真を撮っていた。墓を前にしゃがんで目を閉じ手を合わせるということをしていない。もうそういう動作は、今の私には習慣的とは言えず、たとえば「アーメン」を唱えるのと同じくらいぎこちないものになってしまう。一方で、親族が手を合わせている様子を写真に収めていると、手持ちぶさたではなく、その場で浮いてしまうほどではない。しかも、かえってひとり静かにいろいろ考えたり思い出したりする時間にもなるのだった。

そんなわけで、墓の前で写真を撮ることは、気持ちとしても動作としても、墓の前で手を合わせることに案外似ているのではないかと、思い至った。

ちなみに私はオリンピックで金メダルをとって表彰台でそれを噛んだりもできないだろう(そもそもオリンピックで金メダルをとったりもできないけど)