東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★現代観光学(新曜社)

  現代観光学 (ワードマップ)

 

『現代観光学』(新曜社)という本を読んでいる。旅行記は観光しているものの奇妙さを詳しく報告するけれど、観光という行い自体がそうとう奇妙なのに、それを深掘りして報告することはあまりない。でもホントは旅行しながらよく考える。「今いったい何をしてるんだっけ?」。その探究がこの学問。

たとえばこんなことが書いてある。

《観光地が真正か真正でないか、オリジナルかコピーかという対立には、意味がない。真正なものもいつか真正でなくなり、その逆もありうる。真正性は「存在」するのではなく、それは観光地というテクストをいかに「読み解いている」のかという人びとの実践活動のなかで絶えず「構築」されるものなのである。観光学が議論しようとしているのは「本物が存在していることは当然である」とか「それなのに観光ではないがしろにされている」といった議論では決してない。観光学が真正性を議論するとき、それは、「現代において人びとが真正性を信じていないにもかかわらず、どうしてある次元になると真正性をよみがえらせ必要としてしまうのか」、「それはどういう次元においてそうなのか」、「そのとき真正性の内実はどういうものなのか」などといった人文・社会科学的に高度な問題を扱おうとしているのである》(遠藤英樹)

 

いや実際、私も昔から「ニセ観光」とかのフレーズに思い当たりながら、観光していた。http://www.mayq.net/tabi9912.html#823

あるいは「メタ観光」とか。http://www.mayq.net/tabi9916.html#830

 

そういえば、『現代観光学』の表紙がまさに「メタ観光」だろう(観光を観光している) https://www.amazon.co.jp/dp/4788516055

これと同じ。https://twitter.com/tokyocat/status/948609323264983040

 

『現代観光学』そんなふうに大いに頷きつつ読んでいるのだが、観光を「近代」「現代〜ポストモダン」さらには「ポストモダン以降」に分けて分析している。なんだか現代思想くさい。実際、リオタールとかボードリヤールとか、さらにはポストコロニズム、ジェンダーなどの用語も当たり前の顔で出る。

その点では、「フランス現代思想」だの「ポスト構造主義」だの「ニューアカ」だの、私の場合80年〜90年代に読んだ(というか読んだ気がしている)、とにかく思わせぶりで難しげだけどどうしても気がかりなそのムードが、久しぶりに蘇っている感じがある。

これ(80年代に流行した現代思想)っていったい何の話だ? と、当時は内心首をひねっていたはずだが、今になってこんなふうに、たとえば観光の話として捉え直してみれば、あれほど ややこしい逡巡と考察が果てしなく繰り返されていた必要性も、ふっと理解されてくる気がする。

そうした捉え方においては、私がただのんきに観光したりそれについて気ままに考えたりしているつもりでも、たとえば先進国が後進国を支配し収奪してきた近代という枠組みを逃れることは到底できないのだろう。文化産業やメディアやIT化といった土台と無縁には観光の行動も感動も生じないのだろう。

 

とはいうものの、それでもなお、素朴にとんでもない光景や出来事に遭遇しあっと驚くようなことが、やっぱり確実にあるのが観光旅行だと思う。少なくとも私には、世界は今なお広すぎる。遠すぎる。グローバル化なんてぜんぜんしていない。知らない所だらけ。知らない物だらけ。知らない人だらけ。

正月に訪れた南インドのハンピも、びっくり仰天の連続だったが、年末に計画を建てるまで、その存在をまったく知らなかった。

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