東京永久観光

【2019 輪廻転生】

演劇しゃべり場 〜 『エンジョイ』


エンジョイ』(作演出=岡田利規新国立劇場、12.15)
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000119.html

演劇を見たことがないのはもちろん、そういうものがあることすら知らない者が、初めて演劇を見せられた時のように、というとさすがに大げさかもしれないが、そう言いたくなるほどビックリの連続だった。

……というわけで、懸案のをこんどは抜かす。

舞台に出てくる人はみな、まず「**という人がいまして、その**さんが、このたび、〜ということになりまして」のごとく説明を入れ、その後からその**さんになりかわってしゃべるのである。

「**になりかわってしゃべる」人を役者という。だからつまり、役者がナレーターを兼ねている。いや、それは時々あることか。というより、ここではナレーターがデフォルトで、「じゃあここから役者も兼ねますよ」みたいに感じられるところが独特なのだろう。

役者という設定の内と外を出入りする、といえばいいだろうか。

それだけではない。舞台に出てくるその人たちは、「ここから第2幕なんですけどね」みたいなことも言う。舞台に自ら持ち込んできたマイクを使い観客目線で言う。これはもうナレーターの役割とも微妙に違っている。**さんになる前のナレーターをするさらに前の、何の役割かというと、今進行しているイベントの司会というところか。

演劇という設定の内と外を出入りする、といえばいいだろうか。

ただし、**さんのしゃべりも、ナレーターのしゃべりも、司会のしゃべりも、もちろん全部、台本の台詞。素ではない。そんなことは当たり前ですね。でもそれがどういうことかというと、会場に集まって椅子に座って眺めている生(なま)の我々に向けてしゃべっているのではない、ということなのだな、たぶん。

それでもまあ、見ている我々はなんとなく騙される。騙されていることは知りつつも。つまり舞台にいる人たちが、いくらかずつは本当に、**さんに見えるし、ナレーターに見えるし、司会にも見えるということ。

演じているほうも演じているほうで、**さん・ナレーター・司会それぞれの位置にいれば、当人の生の体や心はやはりそれぞれの位置にどうしてもひきずられ、心理や仕草がいくらかは揺れてしまう、つまり完全なコントロールはできないのではないだろうか。そういうヘンテコなところに、演じられ見せられている位置の現実感と、今この場に客としている位置の現実感とが混ざり合い、それら全体がなんとも不思議な体験になるのだろう。

いやまあ、そういうのを演劇というんだよな、と思い直し、おかしいな私はきょう演劇を生まれて初めてみたんだっけ、などと首をひねるのであった。

小説でもそういうことは頻繁に起こっているはず。ところが小説は視覚としてはインクの文字がずらずら並んでいるだけ。さらに重要なことは、書き言葉はどの書物にどう印刷されようが、記号の表記としては一律に永久に不変で融通がきかないということ。それと対照的に、人の体や声は、やっぱりどうしたって一回性のものだ。デリダっぽくなった。

それにしても、しゃべりの言葉づかいや口調があまりに今どきの若者風なのは、見事というしかなかった。……と言うけれど、実は、実際の今どきの若者の話に2時間もびっしり耳を傾けるような機会は、私の現実生活では起こりにくい。だからこの先、街などで見かけた今どきの若者のほうが、あの舞台でしゃべっていた若者風に見える、ということになるのだろう。

*上記にある「  」の中は台詞の引用ではありませんのでご注意を。