東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ボケましょう

梅雨のはずだが、存外に天気はよく、
今の季節は、テラス席に座るのが気持ちよい。
これは渋谷東急ハンズ近くの「パラダイス マカオ」という店。
アジア系のランチをときどき食べにいく。
バンコクの宿が、通りに面してゆるく併設しているような造り。
店員もいい意味でゆるいのが、またそれっぽい。
風はあるがもう湿っぽいので、余計にバンコクを思い出す。
どこかへ行きたい。


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ネットの語りはツッコミが基調だ。メディア会社の記事も個人のブログも、世の中で生じたボケ現象を受け、自らは中立的で常識的な立場を、少なくとも自認したうえでものを言う。

でもたまに、そうかこれはボケ自らが語っている趣向なのかな、というブログもある。といってもノリツッコミなどではない。そもそも鮮やかなウケをねらった風ではない。ボケそれ自体の醸しだす変調や霊妙さがあたりを包み込んでいくようなテキストだ。そういうものを見つけると、ひそかに嬉しい。たがそうしたボケエントリーは、昨今国民の大多数を占める経済的ないしは社交的活動に熱心で多忙なタイプの人々がインタネットに求める「ライフハック的に正しい」情報とはみなされず、多くのブックマークを集めることもあまりない。

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話は飛ぶようで飛ばない。動物は力や性の強いものが子孫を残してきた。それが進化というものだ。しかしヒトとくに近代以降の人間は明らかな例外で、そのような者は殺人者や強姦者として閉じこめられる。進化的に正しいヒトは社会的には正しくない。そうでなくてもやんわりと性淘汰されるだろう。その一族が繁栄を謳歌することは難しい。

そんなわけで、社会的犯罪的なボケ行為は、警察が捕まえる、淘汰する。

しかしながら、そうしたボケは、語ること自体もまた徹底して禁じられる。そのことを我々は忘れがちではなかろうか。

ボケが逮捕され留置されてしまえば、そのボケの語りがそのまま伝えられることはもうけっしてない。すべては警察の捜査官や広報官というツッコミが語るだけだ。「人を殺したかったんだろ。相手は誰でもよかったんだな。そうだろ」「*&%・・・」「・・・よし」。そうして『誰でもよかった』という作文が流布する。そんな一面もあるように思う。そのツッコミに、マスコミや識者がさらに輪をかけてツッコむ。

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小説もまた、あるボケ役についてツッコミ役が語るというのが基本形にみえる。だからツッコミ自体にボケが入ってくると、ややこしくて面白いことになる。

逆に、町田康などは単純にボケのほうがそのまま語っており、いくらボケようとその価値軸は安定しているので、安心して笑っていられる。筒井康隆などのいくつかの作品もそうだった。他にもいろいろあるだろう。

その観点でいくと、諏訪哲史アサッテの人」(asin:4062142147)は、ある男のたぐい希なるボケ人生に、甥である語り手がどうツッコめばいいか考えあぐねている図、かと思うと、とうとう語り手までがボケに巻き込まれて幕引き、という感じだった。青木淳悟四十日と四十夜のメルヘン」(asin:4104741019) は、そもそも語り手はツッコミではなくボケかもしれないと疑わないことには、読者は考えあぐねてしまうだろうし、なんといっても、その怪しい語り手がいつの時点からボケ始めたのかが分からないので、ひたすら困ってしまう小説ということになるだろう。磯崎憲一郎肝心の子供」(asin:4309018351)は、明らかなボケ役が定まらず、ツッコミ役の語り手もみえない、かのようなふりをして、実はテキストの最初から最後まで素知らぬ顔でボケを通した、ということなのではないかとも考えられるので、不思議だ。これらの創作は文芸という域をひとつ超え出ているのかもしれない。

川上未映子乳と卵」(asin:4163270108)は、豊胸手術のために中学生の娘も連れて上京してきた姉について、その妹が語っている。すなわち姉がボケで妹がツッコミ。出来事や行動が描写されるのは姉のほうで、それについて考えているのは妹のほうだ。だから、姉については内面が今いちわからず、妹については外面が今いち分からない。語り手の妹は自分の仕事や交友についてまったく語らないのだ。そこがちょいと寂しい気がした。寂しいのはいいとしても、語り手がツッコミに徹してボケにまわらない結果、語られている姉と娘や2人の関係がどんどん動揺し破綻していくのと対照的に、語り手は、そしてそれに加えて語り自体は当たり前かもしれないがなにも破綻せず、それゆえにごく普通の小説という印象になる。ただし、そこに娘の書いた日記の断片が挟み込まれるのは面白い。その日記のなかで娘は、自分と母の人生に対して賢く正しくツッコムのだが、そこにはいくらかボケも混じっている。では、ここにはなぜ語りのボケが混じるのかと考えると、未熟な娘の弱々しさや愚かしさのせいとも言えるが、挟み込まれた日記の語りが、小説の語りの内部にあるせいで、ボケても許容されるという構造からきているとも思える。

そういえば、カフカの「変身」「審判」「」などは、主人公はまるきりツッコミ役であるのに対し、周囲の登場人物がみな一様にボケているため、主人公はツッコムどころか翻弄されるばかりであり、それに加え、語り手のほうもなぜか積極的にはツッコんではくれない小説、だったかもしれない。記憶が曖昧で思いこみで記しているかもしれないが。(変身 asin:4560071527/審判asin:4560071543/城 asin:4560071551

ちなみに、「罪と罰」は殺人というボケをかました若者が主人公だが、彼は小説の視点人物でもあり、その考え自体は哲学的なツッコミに満ちている。一方、「カラマーゾフの兄弟」は、あの長大な出来事の背後にそれらすべてを眺めているツッコミの語り手がひとり存在する。ツッコミの当人はけっして物語に絡まないから、いったい誰なんだとやや違和感がある。(罪と罰 asin:4102010211カラマーゾフの兄弟 asin:4334751067

もうひとつちなみに。前にも書いたが、小説はボケがありえるが評論はボケがありえないと思われる。評論にボケが入ってきて、論者自身がもはやツッコムのをやめたとき、もしくはツッコミからボケに転じたとき、それこそが「評論がいつのまにか小説になっていた」ということなのだろう。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061209#p1

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ここまでは、文章の語り手がツッコミだけにとどまらずボケにまわったらどうなるか、という話だった。

ではさらに、文章の語り手どころか文章の書き手、すなわち作者がそもそもボケているということはありえるのか。それはつまり文章の書き方、日本語の使い方、ひいては作者の頭がちょっとおかしいということを意味する。

漫才もたいていは台本どおりにボケるのだろう。もしくは自身の天然のボケをよく理解しそれを計算ずくで制御する。単にボケを放置しているだけの芸人など、あまりいないと思われる。

岡田利規の芝居に衝撃を受けたが、あれもやっぱり演劇というものを正しく理解する作り手や演じ手があえてボケをやっているのだ。いくら演技のセオリーを破り、舞台のセオリーを破っているようにみえても、公演自体を成り立たせるセオリーが破られることはない。つまり、役者が途中でいやになって帰ってしまうとか、照明が落ちてきて観客を直撃するとか。・・・でもあの芝居はそうしたことの可能性まで覗かせているようでもあった。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061216#p1

出版された小説作品で、文章や日本語自体がボケているということも、ありえないのか。数少ない例外として、猫田道子うわさのベーコン」(asin:4872335023)が挙げられることがある。あるいは、武者小路実篤の晩年はそんなかんじだったとも噂される。小島信夫ももしかして・・・・とか。

野口英世の母が英世に書き送った手紙が有名だが、あの文面に感動するのは文章が下手だからというのもあるように思う。http://www.geocities.jp/ikiiki49/page018.html

これに絡んで思い出したことがある。坂口安吾太宰治を「フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない」と批判した。(不良少年とキリスト http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42840_24908.html)。文学の作り手は常識人でなければならないと安吾は常々言う。そして友人でもあった太宰は、フツカヨイがフツカヨイのままフツカヨイ的に死んでしまったのだと、寂しく語るのだ。ただ、太宰の魅力とは、そうしたフツカヨイがフツカヨイを許すような哀愁にあるようにも思う。(堕落論 asin:4101024022

さて、インタネットの文章はどうなのだろう

インタネットはさすがに裾野がはてしなく広く、だいいち我々はもはや近代人として活動しているのではなく、動物化いちじるしく環境管理化いちじるしくすなわち人格の砂粒化がいちじるしきポストモダンの後期人類なのだから、そりゃいろいろおかしなものも書いたり読んだりしているにちがいない。

たとえば、随所で話題の読売新聞「発言小町」などは、「乳と卵」の豊胸手術志望の姉みたいなボケ的な人がせっせと投書し、せっせとツッコミあっている場なのではないか。だから「乳と卵」がもし、ボケ役の姉が語り手に転じたら、どんなふうになるのか、ちょっと興味深い。単に発言小町みたいなものになるのかもしれないが。

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関連エントリー
 アサッテの人 乳と卵 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080604#p1
 肝心の子供 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20071224#p1
 四十日と四十夜のメルヘン http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080605#p1