東京永久観光

【2019 輪廻転生】

大竹


大竹伸朗「全景」展。ずいぶん前からやっていて評判も聞こえていたのだが、あい変わらず腰が重く、少し前 NHKでインタビューが流れたとき、あれ、さまぁ〜ずの大竹に似ているかな、風貌、その他もなんとなく、と思ったことが最終的に背中を押すようなことになって、やっと見てきた。東京都現代美術館

http://shinroohtake.jp/

物量的に圧倒された。落書きでも何でもいいから描かずにいられない、形にせずにいられない、しかも面白いやり方を見つけたら今すぐやってみないではいられない、そんな欲望、というか衝動や反射、これは誰にでも潜んでいるのだろうが、そうしたものをずっと保ちながら、常に全開にしながらの、やりたい放題、何でもあり、といった印象。おかげで少々歩き疲れた。軽くなったはずの腰がまた…。

それと、さまざまな紙片をとっておいた膨大なスクラップブックや、小学生の頃から年代を追って並べたスケッチ類が展示されていることもあり、ライフログ(life log)ということの不思議さも、しみじみ思った。

美術展のたぐいは、当てずっぽうでいいから、たまに見に行ったほうがいい。それは頭では分かっていても、実際に思い知るのはやっぱり実際に行った時でしかないから、困るのだけれど。

あらゆる情報が今はたとえばネットにあると言ってもいいが、そうした情報は把握や制御がとてもスムーズなのに比べ、美術作品そのものや、あるいは美術展という出来事、さらには電車に乗って見に行って館に入って展示物を見て回る行動全体ということになると、全身が受けとめている情報は、そりゃもう複雑すぎて、そこで起こる反応は頭や言葉では絶対予測できないのだ。東京都美術館に着くと建物の上に「宇和島駅」の電飾看板があって、いきなり「来た甲斐あった!」と思わせる力に満ちている。それがどういうことかはうまく伝えられないし、うまく伝えるほどのことでもないのかもしれないが、それでもなにかこう決定的な不意打ちであったような気が今している。


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で、そのあとしかし、常設展も見て、意外にも河原温リキテンシュタインが出てきたりして、それから最後の最後、小沢剛の「地蔵建立」に再会し、ああやっぱり私はこういうのがいちばん好きなのかなあと、改めて思った。

いやあ、「地蔵建立」って面白い。何なのだろう、あれは。あれはしかし、さっきの主張をひっくりかえしてしまうが、鑑賞者にとって全身で感じ取る類の作品ものではなく、むしろ写真というメディアに限定してしか触れようがない、そうしたメディアとして最終的に浮上するしかない類のなにかに触れている感じこそが、なにしろ面白いのかもしれない。ところがそれと裏腹に、「地蔵建立」を制作する側にとっては、直接的な行為が、それもなかなか多層的で面倒な行為が不可欠となる表現だ。もちろん、どんな表現だって全身による作業が必要だとは言えるが、「地蔵建立」は、それとはひとつ次元の違った空間的な移動(どこかへ行く)とか、それらの写真が集積していくのをじっと待つしかないという意味で特殊な時間的な経過などが、不可欠な表現だとと考えられるのだ。そうした多層と面倒を一気に写真一枚が物語ってしまうようなところが、面白いのだろうか。

そうすると、しかし、「地蔵建立」のほうは、大竹伸朗の直接的な物量の力とは逆に、たとえばグーグルで検索してどういうものかを把握したり制御したりするほうが、かえって本質に迫れる芸術なのかもしれない。しかしながら、そういうものをわざわざ美術館に展示したり、そういうものをわざわざ重い腰をさすりながらじっと眺めているという変態的な行いが、いっそう面白いかもしれないので、美術展というのはなかなか侮れない。