東京永久観光

【2019 輪廻転生】

気づくことも説くことも難しいが


もしも、生まれて以来ずっと車に乗って全生活を送ってきたという人がいたなら。その人にとって車であちこち行けるのは当然で車はまさに自分の足だ。しかしそれゆえに、車生活というものを相対化することができない。自分の車自体を外から眺めることもない。そうすると、車が動く仕組みを誰かから教わらないかぎり、車がエンジンで動くことやタイヤが回っていることにすら気づかない。前席のドライバーが何のためにいるかも考えてみない。車窓の外を歩いている人があんなに遅いのも不思議でしかたない。そんなふうになるだろうか。

車がどう走るのかをまったく知らない人はあまりいない。しかし言語の仕組みとなると、誰もがこの仮想話と同じくらい分かっていないと言っていい。

たとえば何が分かっていないか。まずなにより、言語を使ってものごとを捉える人間とそうしない他の動物たちとの差があまりにも大きいことが分かっていない。草原の四駆車とチーターでは疾走する方式が質的にまるきり異なる。そんなことをイメージするといいかもしれない。

今 2冊の本を読んでいる。(上記は両書に触発されたが引用ではない)
●マイケル・トマセロ心とことばの起源を探るASIN:4326199407
●テレンス・W・ディーコン『ヒトはいかにして人となったかasin:4788506718

どちらも言語という能力の起源や進化を扱っていて、面白すぎる。しかし困ったことがひとつ。「はは〜なるほど」「こりゃ絶対永久参照だ」という感慨と興奮があまりに頻繁なので、いずれのページもさらっと通り過ぎるのが不可能になることだ。メモしても忘れるがメモしないともっと忘れるに決まってるから、心配でおちおち寝転がったり飯を食べたりしてはいられないということ。しかも、そうした興奮がトリガーとなって自分でも言語について根本から問い直し考え始めずにはいられない。おちおち読んでもいられないのだ。

ためしに自分の考えをちょっとだけ書き留めようとしても、明らかにキリがなくなる。

母語の文法は教わらなくても身につくが、足し算やかけ算は教わらないと絶対身につかないのか」「数学と言語ではどちらが人間本来の認知形式に近いのか」「はたまた、どちらが世界の存在形式(?)に近いのか」「究極の認知記号として言語以外の形態が実はありえないかもしれないように、究極の経済媒介として貨幣以外の形態は実はありえないのではないか」などなど。

こんな大それた問いをめぐって、いずれはブログにまとめたいとも望むわけだから、困難と面倒がいやというほど予測され、面白い本であればあるほど、なんだか先行きが暗く、辛くなってしまうのであった。

だから今はその興奮をアースするつもりだけで書いた。中身のきちんとした紹介はまたいずれ。常にそうなる。もどかしい。


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感慨と興奮は他にもある。たとえば新潮11月号に載っていた絲山秋子エスケイプ/アブセント」。

バーミヤンで五目焼きソバを頼んで読み始めたところ、いきなりハマった。これまた面白くて面白くて本当にため息が出る。しかし小説はメモして読む習慣がない。というか、どうせ要約や解説など無理と最初から諦めている。したがって焼きソバが来ても食べ終わっても平気。どんどん進む。

しかし、この小説に何故こうも引き込まれたのだろう。だから説明は困難、かどうかはさておき、やっぱりなんだかややこしそうなので、しない。近々単行本になるらしい。

エスケイプ/アブセント http://books.yahoo.co.jp/book_detail/r0230224


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同じく新潮、保坂和志の連載も読んだ。「緩さによる自我への距離 〜小説をめぐって28」

保坂自身が面白いと思って読んでいる小説について今回から書いていくと宣言。ただし、そのおもしろさを伝えられるかどうかは自信はないし、自分でつかまえきれてもいないと言う。

そんなこんなで、「小説が本当はどう面白いのかなんてきちんと説明しだしたら、ほらみなさいこんなことになってしまうのよ、お母さんはもう知りませんから」という見本がここにあるなあとおもいながら読んだ。そのぐねぐねして先も見えない文章は、しかし、きわめて面倒で困難な何かを類例のない態度で徹底探究していると思われ、絶対に捨てがたい。でも、小説の説明しがたい面白さをどうにか説明しようとした文章の説明しがたい面白さを私が今からここで説明するのは、やっぱり大変なので、やめよう!

ただし、(面倒くさいのは許してもらうとしても)小説の面白さを神秘化してはいけない。だからこそ保坂和志はあんなことになりながら連載を続けているのだろう。ぐねぐねした思考の果てに、あるいはぐねぐねした思考の根元に、小説が他の言語活動とはまるきり違うことの核心に至る、意外にシンプルな糸口がいつしかふわっと浮かんでくる予感。

保坂和志『小説の誕生』asin:4103982063(新潮の連載の単行本化)
保坂和志『小説の自由』asin:4103982055(同)


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そして、核心を見極めるのがあまりに困難だけれど糸口が皆無というわけではないのは、小説だけではない。言語もだ。ぐるっと話は戻って『ヒトはいかにして人となったか』は、独特の糸口をひとつ見い出すことから論が始まる。

言語は複雑で高度であるから他の霊長類には真似できない。なのにどうして人間だけはこれほど複雑で高度なことができるようになったのか。言語の起源を研究する者は常にそのように考えを進める。だから糸口が見つからないのだと著者ディーコンは主張する。《言語のもっとも決定的な特徴はその複雑さでは説明できない》というのだ。

そしてディーコンは「複雑言語」に対して「簡単言語」を提起する。《論理的には完全だが、単語は少なく、統語は限られた、非常に狭い範囲の言語》。そのような簡単言語でも人間以外の動物はまったく使えないのだというのだ。他の動物は言語が複雑だから身に付かないのではない、ごく簡単な言語でも身に付かないのだと。

すると謎はむしろ深まる。ごく簡単な言語すら動物がもてないのはなぜなのだ。言語の特別さは複雑さにはないというなら、どこにあるのだ。人間には把握できて他の動物にはどうしても把握できない、言語だけがもつ特異な性質とは一体何だ。

ズバリそれは「語の意味とレファレンス」だとディーコンは言う。つまり、何かが(何かそのものであるのではなく)別の何かを表しているということ、その単純なありようにこそ言語の決定的な特性があるということだろう。

《「言語のミッシング・リンク」の謎は、ほとんどの種にとって言語学習は非常に簡単な言語でも全然やさしくないという事実にある。要するに彼らには言語とはなにかがわからない。もしかするとこれはただ難しいのではなくて、非常に強いなにか別の素質に反しているのである。(…)語やサインが何かを表すとはどういうことなのか、それを指すとか連想するだけではなく、それを記号化するとは何なのかがわかること、これは心の一つの得意技で、それにはほとんどの動物の脳が前不適応なのである》

言い換えれば、言語の秘密の核心とは、言語が「意味を持つ」ことだと言っていいだろう。

《語の意味のような簡単なことが、動物にはどうして判らず、厄介なのか。この質問はそれ自体が厄介である。語の意味とは何か。これは哲学以前の昔から思索家が考え、思考過程の研究者を悩まし続けてきた。数千年を経、数千冊を超えて、なお語に意味とレファレンスを与える関係とはなにかが明らかにならない。もっとも日常的な経験の一つが、本当のところ、わからない》

さあもう先を読まずにはいられないのでは?