「喉元すぎれば熱さ忘れる」というが、分厚い本にぎっしり記された文章を読んでいても、ページを過ぎれば内容を忘れているのは、どうしたことか?
そもそも、喉を通り過ぎた食べ物のことを我々はどれくらい覚えていたり忘れてしまったりするものなのだろう。
昨日何食べたっけ? サンマ塩焼きとご飯とみそ汁と白菜の漬け物とひじきと大豆の煮物。なめこおろしそば。カボチャとニンジンとブロッコリーの入ったカレーライス。
味は? すごくうまかった。そこそこうまかった。さんまが香ばしかった。みそ汁が熱かった。おろしが辛かった。「まったりコクがあった」。
文章もその程度には記憶・想起できてしかるべきだ。
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実際のところ、舌や喉や胃や腸が食物を受けとめるときの反応は、すこぶる複雑なものだろう。それらの器官がもし独自の言語をもっていたら? いかなる表現をするだろう。
一方で、もちろん人間の言語もかなり複雑なことを表現したり伝達したり理解したりできる。しかし…
…そもそも消化器官の化学反応と人間の言語を比較するのは無理か…
両者はまったく異なるものだ。いや、異なるなんてものではない。その異なり方の根幹がわかったら宇宙の根幹が解明されるというくらいに異なっているのではないか。
あるいは自然現象と人工現象の違いというべきか?
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まったくまとまらない。ただし次のことには思いが至る。
そもそもカレーやサンマに「味がある」。これは宇宙の大きな謎の一つだ。しかしまた、そもそも言語がなにかを表現するというのも、それと並ぶほどの巨大な謎なのだ。(「だいたい言語にカレーやサンマの味がわかってたまるか」と舌や喉は啖呵を切りそうだが、しかし実は、言語だけは味であろうと何であろうとそれを完璧に再現できる唯一のなにかかもしれないのだ)
ああ、それほどの謎が毎日毎晩、喉元や目元を通り過ぎていく…。
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<その後の雑感 11.3>
長い小説を読んでいる最中だというのに、すでに読んだところをどんどん忘れてしまい、ある人物が何をしたかも、前を読み返して「ああそうだった、そうだった」とやっと思い出す始末。ほんとにこんなことでいいんだろうか…。
とはいえ、それは小説だけでなく、私が昔に何をしたかなんてのも、けっこう忘れていることだらけだ。あれほど考えに考えてブログに書き留めたことも、たいてい忘れ果てていて、「あ〜そうだったこんなこと書いた」とビックリするやらおかしいやら。そんなことがよくある。
読者が小説を読んでいてもどんどん忘れていくように、じつは作者も小説を書いていてもどんどん忘れていっていたりして!