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【2019 輪廻転生】

世界には頂上と裾野がある


世界史を履修しない高校生が少なくないことが、このあいだ発覚したわけだが、とても意外だった。われわれは生涯にさまざまな知識を積み上げていくけれど、世界史はその基盤としてどうみても必須と思えるからだ。人類が歩んできた道のりの全体を、すぐには覚えきれないにしても、端から端まで一挙に眺め渡してみること。それをしたことがないというのは、世界地図をまだ見たことがありませんというのに等しい気がする。

‥‥と胸を張るほど、しかし、世界史に詳しいわけではまったくない。そんなことで、思い立ってその高校世界史の教科書を一冊買ってきた。山川出版社の『詳説世界史』。これは私が高校2年で与えられた教科書の現在形でもある。今も面影ありあり。大いに懐かしくもある。

おなじみのメソポタミアギリシャ、ローマときて、インドの古代文明がそれに続く。そうしてマウリア王朝の「チャンドラグプタ王」という人名がゴチックで出てきた。ああ高校時代このあたりで早くも世界史の授業についていけなくなった。「チャンドラグプタ? なんだそりゃ」。奇妙な語感と、教室でプリントを配りながらその「チャンドラグプタ」を何度も口にする、同じくちょっと奇妙な世界史のH先生の表情。受験詰め込み時代から遙かな時が経過してもそういうことだけは忘れない。

でも今となっては、世界史なんて無数のトリビア、しかも一つ残らず面白いように連結していくトリビアの集積だ。試験さえなければ、あるいは今なら退屈さえしなければ、これほど安楽な読み物はないとも思われる。

とはいうものの、世界史とは、山川教科書の殿堂っぽいイメージに反し、実は確固たる項目や語り方が本来ないのだと言われる。「国民の歴史」という自分勝手がまずあろうが、それを抜きにしても、世界で起こったあらゆる出来事のうち何が世界史であり何が世界史でないか、その基準自体が定めがたい。考えてみれば、そりゃそうだ。

世界史なんて存在しない。そう言ってもいいのだろう。しかしまあ実際に世界史は存在する。少なくとも世界史の授業と教科書は昔も今もこうして存在している(ときたま架空)。

ウィリアム・H・マクニールという人が一人で記述した『世界史』という分厚い書物がある。全一冊。有名らしい。

その序文(1978年)にこうある。

《二〇世紀になると、アメリカでは教科書を書く場合、西欧文明なるものの歴史があるという点について、ほぼ意見の一致が得られている。しかし、世界史なるものに関しては、統一的な基準はまだできあがっていない。何を削って何に焦点をあわせるかは、依然として議論の的であり、異論の絶えないところである》

しかし一方でこうも書いている。

《事実、人間社会がはじめて文明化した複雑さと規模に到達したとき以来、旧世界では、たった四つのことなった大文明の伝統が、共存してきたに過ぎない。またアメリカ原住民の発展が、常に力弱く後進的だった新世界では、三つのことなった文明が発生しただけである。
 このような事実の故に、人間の歴史をひとつの全体として概観することが可能になる》

《本書をまとめる基本的な考え方は簡単である。いついかなる時代にあっても、世界の諸文化間の均衡は、人間が他にぬきんでて魅力的で強力な文明を作り上げるのに成功したとき、その文明の中心から発する力によって攪乱される傾向がある、ということだ。(‥‥)
 時代が変わるにつれて、そのような世界に対する攪乱の焦点は変動した。したがって、世界史の各時代を見るには、まず最初にそうした攪乱が起こった中心、またいくつかの中心について研究し、ついで世界の他の民族が、文化活動の第一次的中心に起こった革新について(しばしば二番せんじ三番せんじで)学びとり経験したものに、どう反応ないしは反発したかを考察すればよいことになる》

つまりどういうことだろう? 世界には無数の出来事があったけれど、それには頂上と裾野があり、しかも頂上は数えるほどわずかだ、ということか。(ということは、「フラット化する世界」とは、いよいよ本当に歴史の終りを意味するのかも)

そして頂上に当たるのは、当たり前のようだが大文明に他ならないのであり、その頂上がそれほど多数出現したわけではないことこそが、世界史という眺め方を成立させる最大の根拠になるという理屈だろう。

ともあれ、その数少ない大文明の始まりの始まりがメソポタミア文明だ。それはもちろん山川教科書も同じだが、こちらは当然もっと詳しいわけで、食糧生産の発達が契機となる展開をじっくり辿っていくと、なんだかSFでどこかの星にいわゆる文明が誕生したストーリーを読んでいるかのようで、ぐっと引き込まれてしまう。

たとえば「神権政治」にしても、山川教科書はたしかにゴチックで記しているがそれだけであり、かたやマクニール『世界史』だと、壮大な実感がじわり形作られ、行き着いた次のほんの一行にも心は沸き立つ。

《数多くの未開民族が、シュメルのパンテオンの偉大な神々が、実際にこの世をおさめている、と確信した》(増田義郎佐々木昭夫 訳)

粘土版に刻んだという最古の文字の誕生についても、これまで私は何を知っていたのかと思う。

《最初のうち、シュメルの神官たちは、神殿の倉庫へのものの出し入れを記録するために文字を使った。この場合、どうしても必要になってくるのが、そのような仕事に従事した人々の名前を記録する方法を見つけることだった。結局、個人の名を一応分かるように記すために、神官たちは、人名の音節と、なにか絵に表わしやすいものの名の音との間に対応を見つけ出そうとした。そして、基準となる音節をあらわす充分な数の絵を定めて、文字をあやつる者たちは、たやすく日常会話のすべての音を表すことができるようになった》

《今までに知られているあらゆる形態の文字が、直接または間接にシュメルの発明から端を発したものであることは、まずまちがいない。それが事実はどうかは別として、神への義務を貢納によって果した人間と果さなかった人間の名をはっきりと記録するために、シュメルの神官が費やした努力が、知られているかぎり世界で最も古いかたちの文字を生み出したことにまちがいはない》

これはSFではなく本当にわれわれの現在につながる歴史なのだ。それを改めて自覚するとき、興奮と驚きに包まれないわけにはいかない。

まだまだ先は長いけど。


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マクニール『世界史』は、『インタラクティブ読書ノート書店』(http://astore.amazon.co.jp/interactivedn-22)にあった一冊。アマゾンのこの方式はしかしうますぎる。

●マクニール『世界史』
 世界史
●文庫になった!
 世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)


山川出版社『詳説世界史』 http://www.yamakawa.co.jp/gestsearch-1result.asp 教科書のせいか、790円と安かった。