東京永久観光

【2019 輪廻転生】

言語について素朴に考える (2)


言語について素朴に考える (1) =http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070110#p1

いくつか応答をいただきました。嬉しき哉。この先どう進めようか迷っていたのですが、それを触媒にさせてもらって、書き足します。

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●みちアキさんからの応答
http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20070111#1168526369

「動物は嘘をつけるだろうか?」あるいは「動物は嘘という概念を理解できるだろうか?」とかって以前に考えていたことがあるのですが、動物の“言語”がインデクスだとしたらちょっと無理そうですね。

ゴハン」という記号を、現実の「ゴハン」に結びつけるだけの段階1と、それに加えてたとえば「ニク」「サカナ」とか「タベル」「カム」とか「アマイ」「カタイ」といった他のさまざまな記号とある決まったルールで結びつける段階2とに、区分できる。段階1がインデクス、段階2がシンボルというわけだ。チンパンジーの実験などから、この1から2へのジャンプが実際に起こることと、そのジャンプがチンパンジーには非常に難しいことが立証されたと、ディーコンは考えている。(『ヒトはいかにして人となったか』)

ただし、人間は1から2へと易々とジャンプできるので、この違いがあまり自覚できないようなのだ。そこで、この違いを実感するには、インデクスからシンボルへのジャンプではないが、たとえば「あなたは頭いいね」をそのまま受け取る段階から、それが皮肉の表現だと気づいた段階へのジャンプから類推するといいのではないか。ある表現が冗談だと分かるのも似たようなことだろう。

嘘をつくというのは、これと同等かさらに高度な記号のジャンプかもしれない。

こうした話から、私はふと映画『2001年宇宙の旅』を思い出す。モノリスに遭遇した猿人たちは「今まで知らなかった非常に重大な何か」に気づいたのだ。それがインデクスからシンボルへのジャンプだったかどうかは分からないが、ともあれ、シンボルが分かるというのは、知能にとってモノリスに匹敵するくらい重大な一撃だ、とは言えるのではないか。asin:B00007HS93

「良いでんでん虫と悪いでんでん虫」のゲームをご存じだろうか。あのからくりが分かった瞬間の、すがすがしい頭の晴れ渡りぶりを思い出そう!

ペンローズの本を読んだら「計算システムには意味という次元は存在しない」みたいな発言を目にしてしまいまして。

関係ありそうなこと:

動物の叫び声やダンスは、それぞれの記号がそれぞれの現実と1体1で対応しているだけで、記号どうしの対応はない(つまりインデクスにすぎない)という話だった。これとは逆に、現在のコンピュータなどの計算システムでは、記号どうしの対応だけがあって、記号と現実の対応(現実世界とかかわる感覚や運動のようなもの)は最初から最後まで完全に欠いている、と言えるだろう。つまりインデクスがないのだ。「中国語の部屋」に欠けているのも実はインデクスなのだとディーコンは洞察している。我々が言語記号「ゴハン」を使うとき、たしかに「ゴハン」という現実を必ずしも伴わないが、その「ゴハン」体験(感覚や運動)の記憶やイメージとでも呼ぶべきものと完全に切れているわけではない。

この話は脳の構造の話にも発展する。身体にある感覚器や運動器と脳にあるニューロンとの直接の結びつきがインデクスを支えている、と単純に仮定することもできる。その一方、前頭前野などでニューロンニューロンが互いにやたらと複雑に結びついていることが、シンボリックな記号の働きを支えているのかもしれない。その場合、シンボル系のニューロンはインデクス系のニューロンと完全に切れているわけではないのだ。実際に、前頭前野ニューロンは身体制御を司る部位とも信号のやりとりをしている。これらにもディーコンの本は触れている。

ついでに、もっと話は飛ぶが。SNSやブログのトラバなどでは今やコミュニケーションばかりが増大し実質的な情報の伝達は欠けている、などと指摘される。このことは、「身体との連結を欠いたニューロンだけの結びつき」あるいは「意味という次元の存在しない計算システム」というものを思わせて、面白い。これはこれでおしまい。

それから、以下の解説は、まさにそうだそうだと思った。ディーコンも「シンボル」を、ちょっとこんなかんじの図を使いながら解説している。

空間に、無数のシンボル(=言葉)が配置されている。あるシンボルとあるシンボルは近くに配置され、また別のシンボルは遠くに配置されている。言語空間中のこういったシンボル同士の関係が、つまり言葉の意味である。このシンボルの配置は物理世界のモノの配置にある程度対応している。そしてある人の空間と別の人の空間中のシンボルの配置もそれなりに似ている。"A"という言葉を辞書で引いて"BをCすること"と書いてあるとして、それを読んで「意味が解った」と感じたなら、言語空間中のシンボル"B"と"C"の位置関係から、新たなシンボル"A"を配置すべき場所が判った、ということである。

最後に《論理的な関係からは意味は出てこないんですね》という述懐があった。それに絡んで少しだけ。

形式化され公理化された数学や論理は、現実世界との対応で考えなくていいし、むしろそれとの対応で考えてはいけない、みたいなところがある。しかし、数学や論理の問題を現実と対応させずに解くのは、我々は得意ではない。いわゆる意味と呼ぶものが立ち上がってこないと感じられるのも、ひとつはそういう場合だろう。

それでも、たとえば「√-4=2i」なんていう計算が我々はできる。ポアンカレの予想も証明できる。あるいは「正1000角形と正1001角形で、1角がより大きいのはどちらか」という問題に我々は答えられる。このとき、これらの問題の「意味」とは何なのだろう? 我々はこの問題を「理解」しているのだろうか?

それと対照的に。コンピュータは、「雪が降る日は必ず寒い。今日は雪が降っている。だから今日は寒い」という論理を正しく判断するだろう。しかしそのときもコンピュータはたぶん、「√-4=2i」と同じような要領で、つまりいわば意味を欠いたまま判断しているにちがいない。というところで、さっきのペンローズの話とつながってくる。

とても素朴な言い方だが、言語の意味は、身体や世界との関わり(=運動や感覚)を抜きにしては現実には成立しにくい、ということになるのだろう。だから、記号の働きがインデクスからシンボルへとジャンプするといっても、身体や世界との関わりが完全に絶たれてしまうわけではない。

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ほかにも応答をいただいています。あとでまた書きます。