東京永久観光

【2019 輪廻転生】

あなたは香田さん以外の誰について詳しく知りたいですか


香田証生さんはなぜ殺されたのか』(下川裕治ASIN:410300231X

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香田さんといえば、2004年10月イラクを旅行中、アルカイダ系のグループに拘束され殺害された青年だ。しかし、イラクにおける日本人人質事件としては、それに先立つ同年4月、今井紀明さん・高遠菜穂子さん・郡山総一郎さんの3人と、安田純平さん・渡辺修孝さんの2人が相次いで拘束され生還しており、国民の衝撃や関心としてはそちらのほうが圧倒的に大きかった。5人には「国に迷惑をかけるな」などといった非難が異様なほど高まったが、一方で彼らの行動を理解し支援する声も小さくなかった。それにひきかえ、香田さんに対する反応は冷淡だった。先の5人がジャーナリストやボランティアとしてイラク入りしたのに対し、香田さんは「ただ愚かな旅行者」といった位置づけで、5人と同様の支持はあきらかに憚られる空気だった。おまけに、これは単なる不運なのだろうが、5人の場合と違って香田さんを拘束した組織は接触が非常に困難と伝えられ、救出への動きもほとんど見られぬまま、香田さんは本当に首を斬られて殺されてしまった。あまりに無惨だが同時にあまりにあっけなかった。それで我々は、香田事件に対するもやもやは、記憶するより先にさっさと忘却するに任せたようにみえる。

そんな香田青年のことを、今さら誰がいちいち知りたいだろう。でも私は、どちらかと言えば知りたい。それはたとえば今井さんや高遠さんのことを知りたいと思う以上にだ。あるいはイラクで銃撃されて死亡し大使に昇格して帰国した外交官のことを知りたいと思う以上にだ。なぜだろう。おそらく、香田さんのなかに、自らの思いや行いに対する確信のなさを見いだし、そこに惹かれてしまうのだろう。いや、なぜそんなところに惹かれるのかと問われても、確信をもって答えられる理由もまたないのだけれど。同じ年にイラクで殺された橋田信介さんに、『最後のアジアパー伝』(ASIN:4062121565)を読んでにわかに共感がもてたのも、橋田さんの生涯や信念の揺るぎなさからではなく、まったく逆の不確かさからだったと思う。

旅行体験を鮮明な感動にまとめあげる、というわけではない下川裕治の著書に、私がつい離れがたさを覚えてしまうのも、つまるところ、下川の自らの旅に対する確信のなさを感じてのことだ。あるときそう気づいた。その下川が香田さんの足取りをたどる。ワーキングホリデイで滞在したニュージーランドから、イスラエルとヨルダンを経てイラクに向かうまで。下川がこのルポに取り組んだ動機というなら、やはり、確信のない旅につい惹かれてしまう旅人の謎を改めて探りたかった、というところではないか。自分と同じ貧乏旅行者として自分と同じ迷いや焦りも抱えたはずの香田さんが、どうしたはずみかイラクに向かった。なぜか。そこに確信はないのだろう。だからといって意志がないわけではない。確信に達しないなかでそれを選択させた何かはある。それがどういうものなのか、下川は身をもって納得したかったのだろう。そんなことを漠然と期待しつつこの本を読んだし、それはだいたい当たってもいた。

「香田さんはなぜ殺されたのか」が推理小説だとしたら破綻している。香田さんを殺した武装勢力の犯行の詳細や動機にはまったく触れていないから。ルポ全体が香田さんに直接関連する情報だけで成り立っているわけでもない。しかし、香田さんはなぜ殺されるハメになったのか、すなわちなぜイラクに入ったのか、クライストチャーチの英語学校で、テルアビブの海岸リゾートで、アンマンの安宿で、どのように過ごし何を考えたのか、それについては下川はひたすら推理し続ける。その律儀さは予想を超えていた。まだ24歳の特に目立たったところもない青年が、その思念について一人の他人からここまで考え抜いてもらえた。そして一冊の本が出来た。異国で捕らえられ脅され命を取られた代償にはならないにしても、通常にはない弔いをしてもらえたとは言えるかもしれない。このように生きた甲斐すらあったと言えるかもしれない。

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ニュージーランドに戻る前に、ちょっとイラクを見ておく——。それは親に内緒で、隣町まで自転車で行ってみる少年のような心境だったのかもしれない。
 最後に味わいたかったもの。それは生きている実感のようなものだった気がする。平和ボケがますます進行してしまうようなクライストチャーチ。軍事力によって守られたテルアビブのビーチリゾート。そこに暮らす日々のなかで鬱積していく苛立ち。彼は旅の手応えのようなものを渇望していたのではないだろうか。そこにイラクという国が出現してくる。連日、テレビのニュースに映し出されるあの国。そこに行くことができる。香田君は、腹が減った魚が餌に食いついてしまうように、イラク行きを決めてしまった気がする。》(p95)

さて、下川はこんなふうにストーリーをこしらえていく。しかし、そうして浮かんできた香田さんの姿にさほど意外性はない。どうせそんな感じの若者だろうという想定内だ。しかもこの推理、妥当だとは感じるが、本人の残した文章などの証拠を欠いているので、真偽を取りざたする性質のものでもない。そうしたなかで、香田さんがイラクに向かった謎解きだけでなく、下川が彼を追って同じ旅をしてしまう行為そのものにまた、私は無性に惹かれるところがあった。

《香田君の旅を追ってみようと思った。/そうしなければいけない気がした》。下川は同書の冒頭近く、いささか急にこう述べる。香田さんがイラクに行った理由を知りたいという思いは実際に強かったようだ。でも、その目的のために、香田さんの足跡をただ追うという手段が最適とはかぎらない。でも下川はそうした。なぜか。下川もまた、その自らの行為に明快な根拠はたぶん示せないだろう。それでも下川はぜひともそうしなければいけないと感じてそうした。私たちが何かを思い立ち実行するというとき、案外そういうものだ。行為の理由に確信はなくても、行為自体はきわめて確信的なのだ。4月の人質5人がきっとそれぞれ「私はこれをしなければならない」という思いでイラクに入ったがごとく。イラクの日本外交官が強い使命感に溢れていたと伝えられるがごとく。下川がどうしても香田さんを追わずにはいられなかったがごとく。香田さんもまた「イラクに入る」という行為をどうしてもせずにはいられなかった。それらはみな同じ次元で理解すべき行為なのだ。

ある人物に強く興味を引かれ、その足跡を丁寧にたどってみる。ルポの方法としてはありふれているのかもしれない。でもそのようなプロセス自体の可能性と奇妙さの実感が、この本を読んでいくにつれぐんぐん増してきた。下川は、香田さんがアンマンで泊まった部屋に立つ。街をひとり眺めていたというテラスの椅子にも座ってみる。イラクに通じる荒野の道路を国境まで行ってみる。そしてただ香田さんのことを考える。どこかを訪れること、そして移動すること、そして考えること。こういう行為には独特の力や意味が生じる。ロードムービーの趣を思い出しつつ、一気に読んだ。

香田さんの姿に意外性はないと書いた。とはいえ、心を留めずにはいられない事実も出てくる。一つ例をあげるなら、香田さんが典型的なフリーターであり「お金がない」という状況が常にまとわりついていたことだ。ワーキングホリデイに行くしかなく、しかもオーストラリアの事情からなかなかワーキングできないという現実。旅費をケチらずにすむ状況だったら、キブツで働けるイスラエルには行かなかったかもしれない。イスラエルに行かなかったらイラクに行こうと思い立つこともなかったかもしれない。そんなことなど思わせる。もうひとつ、イスラエルでお金を稼ごうとした香田さんが、思いがけずCM出演という仕事を得たという話。下川はその試作ビデオを見ることができた。なんでもそれはエスキモー役で、香田さんはそれで破格の300ドルを得たという。事実は小説より奇なりというか、これがもし小説ならこんなエピソードなかなか思いつかないが非常に魅力的だなあ、などと感心してしまった。なおそもそもこのルポは、前書きも目次もなくいきなり《サムナーのビーチにいる》と本文が始まるところなど、じつはちょっと小説みたいでもあった。誰かの足跡をたどるという展開も、小説の構図としても正統そして有効なのではないだろうか。

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長くなると飽きてくるのは、旅行もだが、文章もだ。というわけで、ここでちょっと飛ぼう(イラクへ?)。

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下川の考察をもとに、香田さんがイラクに行った理由をあえて一言にするなら、「自分探し」という言葉がいかにも当てはまる。

この本の前に私はたまたま『自爆テロリストの正体』(国末憲人)という新書を読んでいた。ASIN:4106101459

911やモロッコ、フランスなどの自爆テロ計画に関与したイスラム原理主義者複数に関し、いくらか取材して考察していく一冊。同書の見解を乱暴にまとめるなら、「自分探しでテロをやっている」ということになる。そのように説明されていく彼らの姿と社会背景は、説得力をもつが、これまた「どうせそういう若者なんだろうな」という想定内に収まってもいた。「自分探し」というありようが、香田さんに当てはまるのと同じような次元で、自爆テロリストにも当てはまることに、さして不思議さを感じなかったということ。つまるところ、「自分探し」とは陳腐なキーワードだが、実際の分析薬としてグローバルに有効なのだろう。ただし、その「自分探し」ということに、この本の著者は確信をもって侮蔑のまなざしを向けている。そこに気づいて私はこの本にじわじわ違和感を募らせていった。

「あとがき」で著者は次のように書いている。《「大卒の出来損ないがテロリストになる」などと結論づけたことから、筆者を随分嫌みなエリートだと思う人がいるかもしれない。実際には、私もかつてその「出来損ない」の一人だった。大学を出たものの就職もできず、ザカリア・サムウイのごとく自分探しの旅に出て、崖っぷちをふらふらしていたのが、二十年前の私だったからだ。》

…ああそうですか。ともあれこの本についてはここまで。

さてさて、自分探しとは、そもそもひどく恥じたり眉をひそめたりすることなのだろうか。たしかにテロという(思いはともかく)行いは、私としても100%困る(99.99%ではない)。しかし、テロに関係するからといって、自分探しという態度まで困ったこととして扱う必要はないだろう。

それどころか、自分探しとは、生活していくときのあまりにベーシックな基調ではなかろうか。みんなブログなど書いていて、書いた内容を整理・分類するのに「テレビ」とか「料理」とか「仕事」とかいったタグというものを付ける。そこにもし「自分探し」なんてタグをつけようとしたら、ほとんどすべてのエントリーに当てはまってしまう可能性がある。あるいは「自分探し」なんて当たり前すぎてタグとして浮き立たせる必要性をもとから感じないとか。それくらいベーシックなことに思われるのだ。それはきっと、ライブドア社長が自分のブログに「金儲け」なんていうタグをいちいち付けたりしないのと同じような事情だろう。

いや、もしかしたら、昨今の日本社会では「金儲け」というのが万人にとって最重要モチベーションとしてデフォルト装備されるようになったのと裏腹に、「自分探し」なんてのは、もはや揶揄の対象にしかならないのだろうか?

まあ、「金儲け」も「自分探し」も、どちらも近代社会的な制度や信心から発したアホらしい思いこみといえば、そのとおりだろう。しかし、究極どちらのアホらしさにくみするかといったら、私はやっぱり「自分探し」のタグに拘る。

香田さんについて、私は事件当初「いかにも今時の青年の典型」みたいに勝手に思っていた。しかし下川本の旅を経て、少し変わった。香田さんみたいな「自分探し」に拘るアホは、実は今どき少数派なのかもしれないと。実際ひたすら「金儲け」に拘るアホばかりが増える。彼らは「自分探し」というもう一つのアホなモチベーションのことは完璧に忘れ去り想像すらできないのかもしれない。そのような現在日本青年のアホさこそ、香田さんの自分探しのアホな死以上に同情すべきなのか。でも同情なんかできるだろうか。

ちなみに香田さんの名は証生。「生きる証し」と読むなら、なんとも象徴的。