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【2019 輪廻転生】

最低のわからず屋とは


高橋源一郎朝日新聞(19日夕刊)に書いた「どこかの国の人質問題」という文章が話題のようだ。

劣化ウラン弾の被害を調べたり、野宿の子供の世話をしたり、誤爆による民衆殺害を撮影したりといった活動をしていた人たちが、誘拐され人質にされ、解放された。その人たちが人生相談するという形式を借りたうえで、こう問いかける。《こわかった、死ぬかと思った。でも、やっと解放され、目の前に突き出されたマイクに「これからも同じ活動をしたいと思います」といったら、わたしたちの国の政府やマスコミやいろんな人たちに「反省しろ」とか「謝罪しろ」とか「迷惑をかけるな」とか「ふざけるな」とかいわれています。いったい、どうなっているのでしょう。わたしたちは問違っているのでしょうか?

対する高橋の回答は、このバッシングを見聞きする鬱陶しさを、さっと一吹き一拭きしてくれるものだった。ちなみに結論は《こんな恩知らずの国のことなんかもう放っておきなさい》。

予想どおりとはいえ、私も源一郎氏とまったく同じ気持ちだと感じた。こうした意見もまたけっして少なくも弱くもないのかなと安堵したうえで、しかし、あえてあえてちょっと一言。

いま、イラク武装勢力とやらを最悪の敵とみなす人が大勢いるなかで、彼らの声に精いっぱい耳を傾け共感できる余地を探ろうとする人もいる。人質になった5人はたぶんそうだろう。源一郎氏もそうだろう。私もまあ何もしていないが、どちらかといえばそうだ。

では、いわゆる「テロリスト」にかくも優しくなれる私が、どうして、「反省しろ」「謝罪しろ」「迷惑をかけるな」「ふざけるな」の「テロ」にだけは、かくも厳しく不快で最低の敵とまでみなしてしまうのか。そんないっそうへんな違和感が頭をよぎる。

外国人を誘拐し殺害も辞さない集団には、そうするだけのそうなるだけの理由があるに違いない。一方、「反省しろ」「謝罪しろ」の罵倒を辞さない集団にも、やはりなにがしかの理由はあろう。でもこっちだけは100%容赦なく殲滅すべきなのか? イラク武装勢力と日本の罵倒勢力。それを並べて比べるのはナンセンスだ、とするのは常識だろう。しかし、いかんともしがたい熾烈な世情が自分の周りを覆いつくすなかで、殴りつけてもいい相手を必死に探し、筋違いのおそれを感じつつも、ただ「ふざけるな」と憤り暴れるしかない、そんな極まった情動において、両者が共通しているとは考えられないだろうか?