東京永久観光

【2019 輪廻転生】

映像を見る人もいれば意味を見る人もいる

映像を前にして、映像を見る人もいれば意味を見る人もいる。いやじつは私たちは映像だけを見るのは難しく、ついそこに意味を読んでしまう。言葉の付いた映像ならもちろん、言葉が付いていなくてもだ。そのとき問題なのは、意味ばかり追っていると映像をあまり追わなくなることだろう。

いやそれより問題なのは、「あのシーンで扉は何回開きましたか?」という問いに正しく答えられる人は、映像を見ていたのか意味を見ていたのか、どっちなんだということだろう。

私たちの周囲を言葉が埋め尽くしているのは、他の動物からすれば、あまりに不自然だろう。ただし、それに並ぶほど、私たちの周囲は映像や動画が埋め尽くしてもいる。古くはテレビ、新しくはユーチューブ等。これが自然だともまったく言えない。

そして映像は、実用的にであれ感情的にであれ思索的にであれ、独自に仕立てられた文法と意味で、いつのまにか私たちを縛っている。独自に仕立てられた文法と意味で、いつのまにか私たちを縛っているのは、言葉だけではない。

さてツイートの最初で、何が言いたかったのだろう? 映像を見るなら、映像の文法で映像の意味を読め、言葉の文法で言葉の意味を読むな、と言いたかったのか? ツイートしておきながら自分ではよくわからない。