東京永久観光

【2019 輪廻転生】

正月早々、でもないか、もう


大雪に覆われた郷里の景色。懐かしい田んぼ道あるいは商店の並ぶ通り。正月からあてもなく歩いていると、自分の思いは無限といっていいほど縦横無尽に飛びまわる。それはもう複雑すぎて、言葉による予測や描写ではまったく追いつかない。言葉とはかなり明瞭で厳格ないわばプロトコルとアドレスに縛られているわけだが、自分の心の動きはそういうところに収まらない圧倒的な物量をどうやら有している。それを実感する。

しかしそれを重々承知したうえで‥‥。それでも、自分にとって世界がこのように見えること、そのなかで自分がこのように動いていること、その要領の根幹は、やはり言語という方式と分ちがたく結びついている。人間の心がサルやネコやカエルの心とは明らかに違うのだとして、その核心や究極に迫ろうとすれば、言語という観点は必ず浮上してくる。

『霊長類のこころ』(ファン・カルロス・ゴメス著、長谷川真理子訳、ASIN:4788509628)。この本の内容およびその面白さと驚きは多岐にわたっており、いずれきちんとまとめたいのだが、ともあれその面白さと驚きが行きつく最重要の観点の少なくとも一つがまた、当然かもしれないが、言語だ。

同書では、言語の進化的成り立ちや認知全般における位置づけを、ぱっと直感させ同時に深く納得させる、過去から現在までの多様な言い方にしばしば出会う。

(人間の子どもとチンパンジーとに、棒や椅子を使って課題を解決させるある実験を行ったところ)《彼らは同じような解決方法を編み出したり、同じような誤りを犯したりしたのだが、そこには一つだけ非常に重要な違いがあった。最初から、人間の子どもたちは問題解決の途中にずっと話しており、彼らを見ているおとなから助力を得ようとした。彼らは、あたかも助けが得られることを期待しているかのように振る舞い、自分たち自身で問題を解かねばならないのだということを認識していなかった。問題解決行動のあいだ中ずっと話しているということに関連して、ヴィゴツキーは、子どももチンパンジーも物体を制御するのに棒を使うことができるのと同様に、年上の子どもたちは(しかし、チンパンジーはできない)、自分の思考と行動を制御する道具として発話を使うことができるのだ、と考えた。》(p311)

このくだり、私は「そうか!」と妙にうなずいた。言葉というのは棒みたいな道具であって、ためしにあちこち突いたり勝手に振り回してみたりすることで、もともと茫漠としたものでしかなかった世界が、徐々に扱いやすく整えられ、同時にそこに自分というものも立ち上がってくる。そんなかんじのことだろう。この文章の最初のほうで言語法則を明瞭、厳格と形容したけれど、一方で言語生活には、可塑性やヒューリスティック(出たとこ勝負でいろいろやっているうちになんかうまくいく)なところがあるのだ。

さらに、言語について、棒的な道具性と並んで絶対に見逃せないのは、それが社会における実行のなかでのみ成立し機能するという事実だ。もっといえば、言語を含めた人間の振る舞いはみな、親など具体的な他人との関わりのなかでじわじわと試されあるいは教わることを通じ、初めてしかし極めて高度に構築されていく。人間の知能はそのように備わっていくし、そのように備わっていくこと自体を知能とみなすべきだ。‥‥このようなことも強く示唆される。これは「人間は生まれたあとからそうするように生まれつきなっている」「学習するという本能」といった見方の適例でもあるだろう。

ヴィゴツキーによれば、社会的学習は、文化によって蓄積された知識を共有するための便利な方法であるばかりでなく、人間の知能を特別なやり方で形作る力であり、もっとも高等な類人猿の知能とも異なるものにさせているのである。人間の赤ん坊の認知発達は、初めから彼らを取り巻くおとなたちによって媒介されており、このことが、自然の認知と文化的な認知との独特の統合を生み出している。その産物が人間の独特の知能であり、それは、生物学的な進化と文化的歴史的進化との、前例のない組み合わせなのである。》

《人間にとっては、道具使用はもはや個人の知能の問題ではなく、文化と社会的媒介の中に組み込まれた社会的活動なのである。この「文化的歴史的」線に沿った心理の発達は、ヴィゴツキーの考えでは人間に固有であり、人間の知能が他の類人猿よりも優れているおもな理由である。類人猿には知能があるが、人間には知能と文化があり、この2つの組み合わせが、人間の知能の独特な形を生み出しているのである。》

正月早々、長々と難しげな引用で、恐縮だ。また、ヴィゴツキーという人はもう古い人であり、今改めて抜き出すほどの指摘ではないのかもしれない。引用した箇所が必ずしも同書の中心でも結論でもないことも付け加えておく。しかしながら、実をいうとここまでは長い前ふりであり、私が本日言いたいのはここからだ。

この世に生まれてからずっと私は、言葉を使い習い整えるという作業を通して、あるいはそれと同一の作業として、この世界を使い習い整えてきた。そうして今や確固たるものに思える私のこの世界観や世界像は、幸いなことに、この社会における多くの他人のそれとだいたいは通じあってくれている(と信じる)。赤ん坊だった私が、いわゆる自然言語を身につけることによって、いわゆる自然の世界を自ら作りあげることができたわけだ。

さて、それと並んで私は、インターネットにこのような文章をちらちら書き綴ってもきた。ホームページ、ウェブ日記、ブログなどなど呼称は変わったけれど、かれこれ10年になった。

このインターネットという言語は、それまでの言語と同じ言語だったろうか。やはり10年間ちらちら感じてきた総まとめとして改めて言うなら、これは間違いなく少しだけ違った言語だ。

もちろん、親や先生が話してくれた言語、本や新聞で目にしてきた言語、テレビで耳にしてきた言語、学校や会社で読み書きさせられてきた言語、それぞれはそれぞれで少しずつ違っている。しかし、それらすべてがもはや同じ方式の言語としてまとめていいように感じられるくらい、インターネットの言語はそれらのどれとも違っている。理由は省くけれど、インターネットという読み書きの現れは、人間の社会が過去には体験していなかったレベルで起こったという実感が私にはあるのだ。しかも恐ろしいことに、インターネットはその後もずっと、そこまでの想像を必ず超えるような新しい言語の感触を、繰り返し繰り返し出現させているようにみえる。

というようなわけで。インターネットというちょっとヘンテコな言語を、こうして徐々に使い習い整えることで、結局のところ私たちは、インターネットというちょっとヘンテコな世界とそのなかのそれぞれの私を、要するに「作ってきた」のだろう。それまでの言語で作ってきたそれまでの世界と私が本当に自然なのか、そこは微妙なところだが、インターネットの言語で作っているこの世界と私は、いずれにしてもそこからさらに少しずれた世界と私ではあるのだろう。

それにしても、ためしになにか書き始め、ともかくそのまま書き続け、とりあえずひとつ結論づけてみると、こうしていかにも本当らしい世界が出来てしまう。そこはこれまでの言語もインターネットの言語も同じように厄介だなと思う。しかし、もう一つ大事なこと。こうしたインターネットの言語が、やはりこれまでの言語と同様、いかに未熟なものであっても、大人たちの助けを含めた周囲とのやりとりをなんども重ねるうちに、また、さまざまなシステムを手探りしながら使っていくうちに、やがては社会的に文化的に「育っていく」と期待できることだ。まあもしかしたら、まったく新しい方式の知能みたいなものすら、ここでは繰り返し更新されているのかも、だ。