東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ネット言論にも対幻想あり、とか?


草ナギ剛と木村拓哉の演技の比較について、たとえば北海道の人と沖縄の人がすらすら論じ合えるのは奇妙なことだが、家庭の食卓においても、人間や社会の実相にいくらか迫った会話が成り立つとしたら、会社や学校や近所の出来事や人物を通してではなく、こうしたテレビやニュースの題材を通してであることが多い。

kom's log』に《吉本隆明タームを使えば、対幻想と共同幻想がテレビ的なるものを通じて著しくオーバーラップしている》とあったのは、こうした事態をめぐっているのだろうと理解している。

kom's logは、この事態をさらに絶妙なたとえで解説している。《みんなテレビのスクリーンに向かっているー各シートに小さな液晶スクリーンがついているJALの国際線のような世界で、隣人よりもスクリーンの中に親しい世界がある。あるいは、満員電車で背中に感じるおねーさんの乳房を感じないふりしてウォークマンを聞きながら文庫本に集中しているうちに本当に乳房を忘れてしまう私》。

しかし重要なことは、これを逆にひとつの可能性に転じようとしている点だ。この事態にも関わらず我々は《満員電車で背中に感じる乳房に、うれしいけどこまったな、とすくなからず悩む自分》であることも可能だ、というふうに。つまりこの事態はなにも《国の話を家族的な感情を投影してしか理解できない、ということではない》というわけだ。そしてこれを《「長期で安定的な関係」@id:solarさんの問題提起》にもつなげている。一方で《逆に言えば、今はやりのセキュリティは「おねーさんの乳房を背中に感じないシャツ」を提供してくれるのだろう》と楽観できない状況にも目を向けている。

我々の言論環境は、今やテレビでもネットでもそれこそ満員電車なみにぎっしり鬱陶しいものになっているが、たとえばこうした指摘の感触こそ、まさにその背中に感じた僥倖と呼ぶべきだろう。いやもちろん言葉はあくまで身体ではない。それはそうなのだが、言葉がこうして現(うつつ)として触れてくる瞬間が、ブログにはごく稀にある。そしてこの体験は、他のほとんどの言葉が幻であること、言い換えれば、液晶スクリーンの窓から眺められる言葉でしかなかったことを、思い知る瞬間でもあるのだ。

ちなみにこれは、六本木森ビルの事故について『極東ブログ』から発した議論がネット上で高速回転しているところを、私の頭は通り抜けできず挟みこまれてやっと停止した地点でもある(?)。

それはそうと、イラクで米国人が殺され燃され吊るされたという例のニュースだが、これだけは、一般の戦闘のニュースと違ってなんだか背中に直に触れてくる。さあそれはなぜだ。