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【2019 輪廻転生】

スクリーントーン


こうの史代の漫画はスクリーントーンを使わないことも特徴だという。それを考えていたら、言語とはみないわばスクリーントーンなのか、などと思った。

たとえば「悲痛」とか「劇的」とかいう単語は、みんな使うし、だれが使っても常に変わらず「悲痛」「劇的」だ。当たり前なのだが不思議でもある。

手描きの絵はコピーしない限り一回かぎりで2つと同じものはない。しかし言語は、毎回コピーして使っているようなものだ。単語だけでなく文もそうなりがちだ。たとえば「よろしくおねがいします」「拝啓 時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます」「多くの被爆者の心を傷つけたことに対し、本当に申し訳ない思いでいっぱいだ。核廃絶に向け、こうした核の惨禍が二度と起こらないよう全力を尽くしていく」

毎日のブログも、スクリーントーンとしてストックしている単語をいかに組み合わせるかの問題だ、と言えなくもない。

ただ、言語も音声であれば一回性を得ると言われる。同じように、手描きの文字になった場合も、書道やまさに漫画の例でわかるとおり個性が現れる。印刷された文字でもフォントの差はあるわけだが、こちらはスクリーントーン同士の差に似ているだろう。つまり、手描き文字とフォント文字の違いが、手描きの地模様とスクリーントーンの違いに相当する。

しょうがない」という言語表現もきわめてよく用いられるスクリーントーンだが、やはり声の発言となると、しかも特定の文脈で閣僚が使うとなると、驚くべき一回性をもつのかもしれない。しかしまたそれに対する報道や議論は、ちょいとスクリーントーン的だったかも。

核兵器反対。ノーモア広島、ノーモア長崎。これもコピーかもしれないが、ともあれ人類よ、原爆投下を二度とコピーせぬよう、そして原爆反対のコピーも広島と長崎の2つでおしまいにするよう、頑張ろう。

*関連
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070806#p1 asin:4575297445
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/0809/TKY200708090167.html
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51108690.html