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【2019 輪廻転生】

科学の素、科学論の素


科学は普遍でも万能でもないことが、意外にもオカルトとの対比によってさっくり示される。そんな一冊。池田清彦科学とオカルト』(PHP新書・98年)。ASIN:4569604439

池田は、錬金術などのオカルトが19世紀に大衆化されて科学が生まれたのだと見る。その際、技術や理論に公共性が求められた結果、オカルトの私秘性が解き放たれ、もはやオカルトとは言えなくなって科学と呼ぼうというになったのだと言う。

かくして科学はオカルトとは正反対に、客観性と再現可能性をなによりの条件とさせられた。しかしこれは科学の限界を示すものでもあるとも言える。たとえば、私が数十年後に老化することを科学は予測できるが、その時私がどんな病気にかかっているかは予測できない。なぜなら、老化は誰にでも繰り返される現象だが、ある時ある所である人にある病原体が取りつくのは一回限りの出来事なので、科学はあずかり知らぬというわけ。《我々は自然の中から、くり返し起こることを見出して、それを法則という形式で記述したのだ。くり返さなかったり、たった一度しか起きないことに関しては科学は無力なのである》。科学は万能であると思いがちだが、こうした特性や由来を思い出せば、そんなことは土台無理だと知れるわけだ。

しかも、事実を客観的に記述するとか、同一の現象を再現するとかいうことも、厳密には不可能なのだと池田は説く。たとえば、我々の周囲にある水は完全なH20ではないが、そこからH20という同一性を引き出して説明すれば、さまざまな水の共通性を説明できる。でも東京の水と富士山の水のおいしさの違いは、H20という同一性では説明できない。また《利根川がどういう川であるかは、利根川の水をいくら分析してもわからない。一枚の絵や一枚の写真のほうが、はるかに利根川の雰囲気を伝えるだろう。実際に利根川を見れば、利根川がどういう川であるかは、一目瞭然であろう。しかし、この「一目瞭然」には再現可能性はない。だから、このわかり方を科学は説明できない。》なるほど〜。さらには、科学が事象の因果関係を解明するというのも錯覚であり、対応関係を示すだけだということを、DNAと病気の関係まで含めて大胆に言い切っている。ここも深く考えさせられた。

なお、オカルトは導入に使われるだけではない。現代の科学があまりに難解になり細分化され日常から乖離していること、そうなるとむしろ人々は科学の限界を忘れて無闇に信奉してしまうこと、それらがまるでオカルトみたいだという、皮肉だが明白な様相もまた指摘される。

すっきりした理屈、はっきりした口調。池田清彦の文章はいつもそうだ。この前読んだ『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)などは漫談に負けないほど笑えた。今回も軽妙かつ平易だが、それでも、科学主義の本性を見極め相対化するという池田のおそらく主たるモチーフが、同書には不足なく盛り込まれているように感じた。しかも、オカルトという絶妙の支えを得ることで趣旨はいっそう鮮明になったのではないか。

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さてこのように、現代の科学がキリスト教の神に代わるほどの位置にあることは、いわゆるポストモダン系の科学論が再三あばいてきたようだ。しかし、科学批判であった科学論も、いつしか陳腐な批判科学に堕し非科学化すらしたらしく、そんな中、たまりかねた「科学」の陣営が「科学論」の陣営に逆襲した。それがソーカル事件ということになろう。詳しくは知らないけれど、その逆襲はどうもトロイの木馬みたいな戦法だった(美しいのか汚いのか)。

同書も前書きでこの事件に触れており、池田は科学論者の側であることを自認しつつ、科学者の寝首をかくはずの科学論者が逆に寝首をかかれたと、この事件を評しているあたりがまた面白い。しかしながら、科学の難解さを反映するせいか、科学論の多くもまた難解で一般人はそうそう近づけない。だったら近づかなきゃそれでもいいが、うっかり近づいてそれこそ訳もわからずどちらかの陣営の鉄砲玉になってしまいそうなところがまた馬鹿馬鹿しい。そういうとき、池田本のような実にあっけらかんとした科学論は、入り口としてかなり貴重だ。科学の原理も科学批判の原理も、この本を読むかぎり、全然ややこしいものではない。

この正統的な自然科学とポストモダン的な科学論の対立は、前にも言ったが『経済学という教養』(稲葉振一郎)が書かれた事情にも絡んでいる。また、『責任と正義』(北田暁大)が、旧来の政治学的な言説を脱するための社会学的な言説と、さらにそれを脱するための政治学的な言説との間を往復しなければならなかった背景も、これに似た構図だと思われる。なんというか、ものごとの説明や納得という土地をどっちの陣営が覆い尽くせるかの合戦か。「ソーカルの変」で形成は逆転したものの、両陣営とも撤退したわけではなく「とろ火の戦争」は半永久的に続くのかも。

では「お前はどっちの味方だ」と問われても、よく分からない。足軽にもなりたくない。ただ、たとえば宇宙の果てとか脳の仕組みについて、誰と語りたいかという問いなら答えられるかもしれない。でもそれは人の選択であって陣営の選択ではない。

ということで池田清彦さんはどうか。彼はこうした質問は予想どおりあっさり片づける。《科学はもともと、科学という方法によって説明できることしか説明できないし、世界には科学で説明できないことの方がむしろ多いのである》。だから「地球はなぜこのようにあるのか」「私が生きる意味は何か」なんてことに科学はもともと関知しない。科学にそれが分からないのは、八百屋や株式市場にそれが分からないのと同じなのだと言う。それなのに、現代人はすべてをコントロールしたいという志向があるせいか、すべてをコントロールできる科学という幻を求めてしまう。《しかし、自然現象の大半は、一回性のものであり、科学がコントロールできるものでも手におえるものでもないのだ。コントロール可能な世界にだけ住んでいると、時に人はそのことを忘れる。ふだん、それを忘れている人は、ある時自分の「心」と「体」がコントロールできないことを知って、あわてるのである。でも、自然のほとんどは、科学の説明の埒外にあるのである》。しかし私は、なぜだろう、こういう割り切りをしつこいほど弁えた池田清彦という人にこそ、「死んだらどうなると思います?」なんてことをとことん尋ねてみたい。あるいは科学ということの本当の不思議について、もっともっと話を聞いてみたいのだ。

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今に始まったことではないが、あまりに脈絡なく本を選んでいるので、ここにも脈絡を欠いて本の紹介が出てくる。それと、他にもいろいろ読んでいるのだが、新書はまとめやすく、つい先になる。PHP新書って特に素早く読めるように思う。『歴史学ってなんだ?』(小田中直樹)もそうだった。本の分厚さと不釣り合いに感想が長くなるのも、どうかとも思ったが、まあしょうがない。