(ここからの続き↓)
貨幣について。
貨幣が宗教や国家や文化を超えてユニバーサルであるという指摘に、「そういえばそうだ!」と改めて感じ入る。日本人もミャンマー人も米国人も中国人もIS人も、仮に互いの素性がまったくわからなくても、ドルだけは信用する。
そして、この貨幣もまた、同書の根幹テーマである「虚構」に直結する。すなわち――
《貨幣は多くの場所 で何度も生み出された。その発達には、技術の飛躍的発展は必要ない。それは純粋に精神的な革命だったのだ。それには、人々が共有する想像の中にだけ存在する新しい共同主観的現実があればよかった》(第10章)
こうした見方を先鋭化させるところが同書の真骨頂か。
しかしながら…
貨幣がやすやすと通用するあっけなさと不思議さとは裏腹に、ミャンマーの水上生活集落を観光し銀細工の手作り工場を見学したあとにアクセサリーを購入しようという場合、売買はまさに「命がけの飛躍」になる。つまり「いったい何ドル払えばいいのか」皆目わからない。
「命がけの飛躍」とは、柄谷行人が『探究』シリーズで持ちだした用語。言語も貨幣も通用する根拠など本来ないということを私たちは忘却しすぎだ、といった主旨のアジテーションを延々行う本(だと思われる)
とはいえ、日常では実際どちらも難なく通用しているのがむしろ驚きなのであり、だから、根拠はなくともことばやおかねがするすると通用してしまう事態のほうを柄谷はむしろ軽んじていないか、という批判がありうる。『ゲンロン4』の東浩紀の巻頭言もそうした主旨として私は読んだ。
しかしながら(ここが今回言いたいことだが)。外国を旅行しているときに限っては、先ほど伝えたとおり、言葉やお金の「翻訳の難しさ」「通用する根拠の不安や曖昧さ」にどうしても思い至るのだ。私が初めて『探究1』を真面目に読んで「命がけの飛躍」を体感したのも、大昔の旅行の最中だった。
当時の記録 http://www.mayq.net/tabi5.html
(→ここへ続く)