東京永久観光

【2019 輪廻転生】

想像できること、できないこと

●もうここ2年くらいは開きもせずゴミ箱行きだった「小泉内閣メールマガジン」に、今回だけは目を通してみた。自衛隊派遣の閣議決定について(11日号)。なんだかすっかり馴染んでしまって今回もどうせそんな感じだろうと諦めていたとおりの空疎な台詞が、頭にも胸にも腹にも引っかからず通り抜ける。やりきれない思いを抱え、よしデモにでも出かけるか、というとそうでもなく、ましてやテロに出かけたりはしない。●代わりに何をするかというと、朝日新聞の社説など読んでみる(10日付)。ところが、これまた聞いたふうな台詞ばかり。というか、私こそがつい書き連ねそうな台詞をそこに見つけて、かえって嫌になる。●じゃあ次は読売の社説(10日付)だ。日本の正当派としては、最低この二つをこの順序で拝むのがよいとされる。しかし、さっき自分が言いそうなことを朝日に調子よく書かれてしまい、ちょっと逆らいたくなったところを、こんどは読売が勇ましく代弁してしまっているではないか。気分はいっそうどんより。


●とはいえ、総理がこれほど詭弁を弄さねばならなかった政治の現実というものを、私は想像することができる。朝日や読売の主張についても、どのような構図で生成されたかを想像できる。三者はもちろん互いに想像できるに決まっている。言説ことごとく、さもありなん。●また、たしかに自衛隊員は不可視の存在だったけれど、彼らがイラクに行く心情を想像できるかと言うなら、私はできる。今回のような理不尽な状況下で、仕事させられるようなこと、あまつさえ仕事させるようなことを、日本社会のそこかしこで私たちはやってきたし、これからもやってしまうのだから。耐えがたい。しかし、避けがたい。


●では、こうした想像を本当に絶してしまう世界もどこかにあるのか。●人間の行うことはすべて想像可能だというなら、これは無意味な問いだ。しかし、たとえばまさにイラクのことは、とりわけイラク自爆テロに出かけていく人の気持ちだけは、今の私にどうしても想像できないと仮定してみてはどうか。●小泉内閣メルマガが空疎なのは、総理の文言が空疎だからというだけではない。イラクの惨状など自分の生活とは無縁にみえる私の世界像が、あまりに揺るぎないからだ。いや本当に無縁かどうかはわからない。でも、それも考え含めた上でも、べつに能天気というのでなく深刻で慎重な態度をとろうとしても、けっきょく私はイラクのテロリストとはほど遠い日常を送っているという事実が否めない。想像を超えた「圧倒的な非対称」はここにある。私と総理の間ではなく、朝日と読売の間でもない。


●いや、想像できないから特別扱いしようと言うのではない。想像できないことをあえて想像したいのだ。もしも日本が他国から攻撃されて政府が壊滅したようなとき、どのような勢力がテロやゲリラの担い手になるのか、ということを。つまり、誰がテロリストになるのか。同僚や同級生や近所や親戚の誰がテロリストになるのか。たとえば私は、いよいよとなればデモに出かける用意くらいはあるのだが、自爆テロにだけは絶対に出かけないのだろうか? ●北朝鮮の侵略とか、はたまた昔のごとき米国の占領とか、それに対してテロを仕掛けそうなあの団体この団体、それらを特定してシミュレートしてみるべきか。しかし、そんな事態があるとしたら、日本をめぐる国際情勢も国内情勢もがらりと変化した上でのことだろうから、現在の情勢に当てはめるのはナンセンスだとも思われてくる。単純ながら、このことがすでに、イラクは日本の想像を絶しているということでもあろう。


●このあいだ、優先席で携帯通話していた若い女性を男が殴ったという事件があった(参照:アサヒコム)。不正義を象徴すると自らが信じる相手にいくらか義憤をもって暴力をふるう、という点では、これはテロの一種かもしれない。市民を巻き添えにする爆弾攻撃、占領国スタッフの暗殺、それらを私の行いに置き換えてみるには、ここまで卑近な例を持ってくるしかないのかもしれない。●私がテロリストにならないとしたら、誰がなるのだ。誰もならないのか。誰もならないのに、世界にはなぜテロリストがこんなにたくさんいるのだ。