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【2019 輪廻転生】

蓮實重彦は、凄い。← ×

●「蓮實重彦 とことん小津安二郎を語る」を聴きに行った(10月18日・青山ブックセンター)。これは『監督 小津安二郎(増補決定版)』の刊行に合わせたもの。この増補版は『秋刀魚の味』のアイロンのシーンから書き始めなければなりませんでした。それは20年前からわかっておりました。といいますのも、このシーンで岩下志麻は肩に手ぬぐいを掛けているのでありますが、それが一体何故なのか。そのことを私は20年間ずっと考え続けてきました。その答えがようやくわかったので、増補版を書くことにしたのです。――とだいたいそんなふうに語りは始まって、毎度ながらすぐ引き込まれた。●この日の話はその増補分とほぼ同一内容だったようだ。『偽日記』(10.18)に増補版の紹介があったのを読んで、わかった。『偽日記』ではその評価もきっちり下しており、イベントのまとめにも代用できそう。●さて、こうした流れがあって、河出書房新社から次々に出ている蓮實氏の映画関連本を一冊開いてみた。インタビューと講演を集めた『帰ってきた映画狂人』だ。どれもこれもぶっちぎりの独創・独走で、今さらながら凄い。小津安二郎についても「映画からの解放」という講演が収録されている。●蓮實フリークには常識かもしれないが、これらを通じてはっきり悟らされたポイントを一つ言うなら――。「映画に映っていないもの(物語・テーマ・主張)ばかり見ているくせに、映画に映っている画面そのものはちゃんと見ていない」。膝の裏を突かれたような驚き。

●さてさて、ここで「映画」を単純に「小説」に置き換えたらどうなるか。小説に書かれていないこと(物語・テーマ・主張)ばかり読むくせに、小説の書かれている文章そのものは読まない――ということになる。●これまた奇妙だが、あえてこの視点で反省してみれば、純文学系の小説などはいわゆる行間に気を配りながら読むものとされている。ところが、まったく対照的に、書かれている文章自体にいやでも注意を傾けざるをえない形式の小説がある。それがミステリーだ。これは実は、高橋源一郎氏が『小説トリッパー』でおおよそ述べていたことだ(03年夏期増刊号、「歴史」と「ファンタジー」=大塚英志氏との対談)。●事件は行間で起こっているんじゃない、文面で起こっているんだ。犯罪の真相や犯人の正体は、背後に隠されているのではなく、文章として書きこまれている。読者は手がかりをすべて読んでいる。

●なお、「映画からの解放」のなかで蓮實氏は、小津の映画について「知ったかぶり」も必要だとする。そして「知ったかぶる」ためには、「小津の映画は…」という主語を受けて「…美しい」とか「…退屈だ」といった形容詞を使ってはダメであり、「小津の映画は…」「…ローアングルだ」「…視線が交わらない」という述べ方ができなければいけないと言う。これまたはっとさせられる。●というわけで。「犯人はかなり寂しがり屋の性格でしょう」「この犯罪は社会への挑戦として憎むべきものです」といった形容をしても仕方ない。「犯人は○○で○○を○○した」「犯人は○○氏だ」と分析できてこそ事件は解決する。ミステリーを読むこと解くことと、小説や映画の批評ということが、ここに重なってみえてくる。

●参考:以前も行った蓮實氏のとことんシリーズ