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【2019 輪廻転生】

何が言いたいの、言いなさい、早く。

仲正昌樹「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』。内容盛りだくさんだったが、行き着くところはこの書名に要約されている。すなわち――。ほんとは自己なんてあやふやなのだから、しっかりした決定なんてすぐにはできない。それなのに、近ごろは何でも自己決定しろと迫られて、とても不自由だ。●この終盤の展開を私なりにまとめると――。なぜ自己はあやふやなのか。そもそも自己=私が何ものであるかは周囲の他人や集団との関わりを通じてしか形成されない。これはもう正論だろうが、それだけでなく、周囲に規定されていた古い自己を捨てて新しい自己を得ようとした場合でも、その新しい自己がちゃんと機能するまでには、やはり同じく周囲との関わりなどのプロセスが要る。●《それまでなれ親しんだ共同体的な文脈の中に自分の「アイデンティティー」がはめ込まれているので、いきなり別の文脈に移るという「自己決定」は、「したくても」なかなかできない。》●ここから引き出されるのは、実にあっけないが「自己決定には時間がかかる」という真理だ。ところが、世の中は教育で医療でも闇雲に自己決定を迫る。これではまともな自己決定はできない。●では、世の中はなぜこんなに自己決定を急かすのか。それは、資本主義というものがとにかく効率を求めてやまないせいだ、と理由づける。●《…「自己」を取り巻く関係性についての複雑な思考の流れは、回転効率を重視する資本主義的な生産体制に貫かれている「近代」においては、軽視されがちである。むしろ邪魔である。》《言わば、市場における効率性の原理に従って、「主体」であることを強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて"不自由"な状態に置かれているのである。》●ありきたりな解答にも思えるが、まあやっぱりそういうことなのだろう。

●こうした分析は、「ひきこもり現象」あるいはそれに似た「いい年をした大人が仕事もせずぶらぶらしてる現象」の理解にも繋がると思えてきた。ゆっくり時間をかけて決めていったのでは自己決定とは呼んでもらえない。そんな現状を仲正氏は憂える。自己決定ができる人は単に気が短い人のことなのだ、という論まで持ちだしてくる。《…「自分では決められない」という態度を取り続けるのも、やはり「自己決定」の一形態である。》のんき者の味方。●さらに、上に示された経済効率の原理が、やはり「ひきこもり現象」「大人ぶらぶら現象」とは切り離せないんだ、という思いを強くする。この観点に立てば、ぐずぐず自己決定しないことこそ真っ当なのであり、「そのために私にもっともっと時間を」と訴えることは社会批判でもありうる。●ただし、それを訴えているうちに給与が振り込まれている仲正氏はいいが、そのうちに稼ぎや仕事がなくなってしまう人は、なかなか大変だ。資本主義や経済の歪みは、実際には各自の生計の歪みとなって覆いかぶさる。本当の悩みは「時間がない」ことなのに、現実の悩みとしては「金がない」。そうして社会の問題が見かけ上は個人の問題となり、やがては「ひきこもりは生産しない、だからひきこもりは悪い」と、単純な経路や内面化によって個人を必要以上に苦しませる。

●追加:同書の前半ではこんな話も出る。《市民社会に生きる「我々」は、各自の「経済活動の自由」を、実現すべき普遍的価値であると考えがちだが、アーレントに言わせれば、利害調整が問題になる「経済」においては、本当の意味での「自由」はない。とどのつまり、資本主義であれ、共産主義であれ、「経済」的利害が人々の中心的関心事である限り、我々は「人間」にはなり切れないのである。》この前段としてアーレントは、古代ギリシアにはその本当の自由があった、ただしそれは奴隷や女性のおかげで衣食住の心配が要らないという極めて特殊な条件に支えられていた、と指摘しているそうだ。●これを踏まえると、「ひきこもる自由は家計を気にしては成り立たない。でもその家計は誰が支えるのか」という悩みが、いっそう本質的に思えてくる。

●ところで仲正氏は、自己決定への短絡という悪弊は、なぜか左翼系の文化研究や市民運動にも生じている、との恨み言を漏らす。例としては、マイノリティにマイノリティとしての自己しか見出そうとしないとか、活動に自主的に参加するよう強制するといったことを挙げている。●どうも、この本は全般に「切り返した筆で左翼を斬る」の傾向が強い。《最近は、哲学・思想をやっている人に、こうした「非自己決定」への「自己決定」を迫る人が増えてきたので、非常に疲れる。》 なんか実際いやな目にあったのかなと想像させるところが、可笑しい。

●では、自己決定という不自由さを回避するにはどうしたらいいのか。仲正氏は、ネグリ&ハート『〈帝国〉』が示した「マルチチュード」に希望を見出している。《簡単に言えば、"何となく"変化を求めている人々の非常に緩い集まりである。》そのネットワークのなかで《"自己"はなんとなく変容しつづける。》《筆者は、こうした意味での「マルチチチュード」は、「○○の主体」への転換を性急に要求してきた従来型の左翼的「主体」思想から卒業するためのいい契機になるのではないかと考えている。》●さらに、その兆しが先のイラク反戦運動の一部には現れていたと、思い当たるフシのあるところを突いてくる。

●終盤の内容にしか触れられなかった。『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』は、全体としては、ヒューマニズム・自然人・普遍的な正義といった大それた自明の価値観がどうやって生まれ、そのエクリチュール的な反復が西欧の思想にどのようなバイアスを与え、そこからどのように自己決定万歳という過ちが導かれたのか、を解いていく本だ。が、そこは省略。

ひきこもり現象については、最近『Freezing Point』というサイトを中心に深い考察や議論が続いている。なかなか機会がなかったが、きょうはぜひリンクしておこう。そういえば、このサイトを知ったのも、日付はやや古いが、家計に絡んだこのつぶやきだった。それに応じた「即身仏は立派な社会人か?」(『圏外からのひとこと』)も合わせて、ぜひ読むべし。●ついでながら、私の昔の日記もひとつ