東京永久観光

【2019 輪廻転生】

テレビの人の心の闇

こういうのは「やらせ」じゃなくて「うそ」と呼ぶべきですね。●それでふと思い出した。ドキュメンタリー映画ゆきゆきて神軍』(原一男監督)で、途中まで登場していたある人物を、なにかの事情でカメラがそれ以上追えなくなった。そのことを主人公の奥崎謙三が映画のなかで説明しはじめる。そして、たしか自分の妻をカメラに向かって紹介し「そこで、ここからは、その人物の代わりをこの妻にやってもらいます」といった意味のことを告げる。そのうえで、そのとおり妻がその人物の役をぎこちなく果たしながら、映画は何ごともなかったかのように進行していった。そんなふうに記憶している(ビデオなどで実際に確認されたし)。その場面はじつに奇妙で「ドキュメンタリーなのにどうして?」というとまどいが当然生じるのだが、同時に「これはきわめて妥当な措置なんじゃないか」という納得ができるものだった。●いかにも真実らしいことが真実なのではない。当人にやらせること、他人に演じさせること、そうした方法だからといって真実が表現できないわけではない。逆に、まるきり演出しないからといって、無条件に真実が表現できるわけではない。そのままの真実というようなものがどこかにあって、そのままの映像はそれをそのまま映し出している、といったことではないのかもしれないのだ。●やらせやうそがないか、作る側も見る側も疑いは捨てないほうがいいし、やらせやうそがないようなものがありうるのか、という疑いも捨てないほうがいい。しかしそれ以上に「真実とか事実というようなものが、どうしてありえるのか、ほんとうにありえるのか」といった疑いをまず持ったほうがいいのではないか。宇宙の始まりとか、死というもの、時間というもの、そういうものがあるとしたらどのようにありうるのか、ほんとうはないのではないか、といったほどの疑いとして。●というわけで、テレビの人たちが「事実」とか「真実」とかいうことを無条件に重々しく語るとき、奥崎の妻が演技をしたのよりはるかにずっとマヌケに見えるのだ。だいたい「12歳殺人少年の心」という真実だって、もちろん実用的な便宜上の真実としては有用なのだろうが、心というような説明が確実な根拠をもつのかどうかなんてきわめて疑わしいのに、この人たちはほんとうに疑ったことがないのだろうか、心のなかで「けっ」と舌打ちしているのではないだろうか。……心のなかで?。●こういう「テレビのマヌケさ」という言い方の鉾先にも、なにかほんとうの真実があるのではなくて、ウェブ日誌の実用と便宜としての真実があるだけなのか。