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【2019 輪廻転生】

誰が読んでも娯楽でなし


小説たるもの、まずは面白くなければならぬ。これは巷で無条件に認められている。その強固さたるや、「人たるもの、まずは働かねばならぬ」が疑われないのと同じだ。

生産性のない人間に何の価値があろう。生産性のない小説に何の価値があろう。

そうした主張に今きっちり反論する元気はない。ただ、生産しない人生や働かない人間に、少なくとも私は無性に惹かれる。同じく、娯楽にならないどうにも読みづらいクソみたいな小説に、なぜか足をとめてしまうのも事実だ。休日に文芸雑誌(文学界2006年10月号)をわざわざ開いて中原昌也の「誰が見ても人でなし」を熟読してみるのは、その典型だろう。

娯楽としての小説という範疇や期待からあまりにも遠く隔たっていることについて、「誰が見ても人でなし」はもう人後に落ちない。破壊的なその文章に踏み入れば踏み入るほどそれは明白になる。

いや、「遠く隔たっている」というなら、娯楽小説から遠く隔たっているという程度の話ではない。

たとえば……。何でもいい、たとえば、毎日新聞の企画「ネット君臨」が拠って立つ価値観と、そこで批判的に取り上げられた2ちゃんねる的とも呼ぶべき価値観とは、大きく隔たっていると考えられる。

ところが、「誰が見ても人でなし」を読み進めて周囲に立ち塞がってくる感覚とはどういうものか。その感覚にもし価値があるとしたらその価値とはどこにあるのか。「誰が見ても人でなし」の言語と世界とは、たとえば毎日新聞2ちゃんねる双方の隔たりがもはやゼロに等しく見えるほど、それらのすべてから限りなく遠く隔たったところに存すると言うしかない。

そうしてこんなふうにも思うのだ。「私の感覚」もしくは「われわれの感覚」という名を現在の私が真に与えるなら、それはやっぱり「誰が見ても人でなし」にあるような言語感覚、世界感覚に対してなのではないか、と。

……みたいなことをどうせ書くのだと初めから見込んで我慢して「誰が見ても人でなし」を読み出したのだが、あにはからんや、途中あまりに「面白くて」声を出して笑ってしまった箇所がある。

《中に人が入ったロボットが丁寧な自殺の手引き》《50代女性のパンタロンだけでもセクシーでありたい願望に非難の嵐と殺人予告》《人気の絞首芸人が今夜大挙出演》《ラテン系男性のホットな断末魔の叫びに女学生ウットリ》《全員がオーバーオールでの出席の一風変わった婦人集会で集団エボラ熱発生》《都内デパートで相次ぐ試着室での謎の窒息死は壁に付着した白濁液の放つ異臭が原因》《肉体切断後の部位贈与問題》《嬰児の足蹴り許可書偽造に無罪判決は正当》《ソンブレロ被った殺人集団が空港の入国管理ゲート強硬突破》

いやこれの何が面白いの? ということになるが、そこはひとつ皆様も我慢して読んでみてはいかが。

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以下参考
ネット君臨について
http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2007/02/post_12.html
●「誰が見ても人でなし」を読んだきっかけ
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061209#p1
中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(総論的)
http://www.mayq.net/nakahara.html