エントロピーって何だっけ? なんとなくわかっているが、ちゃんとわかろうとすると、かえってわからなくなる――こういうものはけっこう多い(下手の考え、休むに似たり)
《系のエントロピーは明らかに、ぼやけによって左右される。エントロピーは何を識別しないかによって変わってくる。なぜならそれは、わたしたちには区別できない配置の数で決まるからだ》――先日読んだ『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ)にこう書いてあった。
「ああ、そうだね!」とニッコリうなずきたいが、無理だ。「ええ、それって?」と眉間にしわが走る。ぼやけとは何だ? 何を識別しないのだ?
思案しつつ、ネットをさまよったところ、次の動画に出会った。『ゆるコンピュータ科学ラジオ』(ゆる言語学ラジオのお二人がやっている)
シャノンの情報理論を紹介するシリーズで「友だちと親しくなる=情報量の期待値が減る」というタイトルの回だ。これって、さっきの「ぼやけとしてのエントロピー」に、きっと関係している!(かも)
このシリーズを通して、そもそもシャノンが情報理論におけるエントロピーというものを定義していたことを知った。しかもその定義は、<エントロピー(期待値のようなもの)=情報量(確率の低さの対数値)☓確率>というとてもイメージしやすいものだった。「ええっ、そうだったのか!」
「エントロピーとは何か」は「オスマン帝国とは何か」という質問に似て、すらすら答えられる人は少ない。「1299年に始まり1922年に終わった」と知っても「1と2と9だけですね」としか感想が言えない。しかし入り口とはそういうものだ。「ΔS≧0」とか「-log2(P)」とかから入るしかなかろう。
そもそもエントロピーとエネルギーの違いとか仕事や力との違いとかがややこしい。それはイスラムと中東とアラブとイランとトルコの違いがややこしいみたいなものだろう。30年前には後者の違いをあまり考えなかった。今は前者の違いを少し考えつつある。長生きはするものだ。勉強はするものだ。
(7月25日)
速度と時間と距離の関係がどうなっているかは、誰でも直感的に知っている(速度☓時間=距離)。しかし、なぜ知っているんだろう? 車を運転して毎日通勤したりお盆に帰省したりという経験の積み重ねだろうか? それとも、中学や高校の授業で計算式を習ったからだろうか?
一方たとえば空気の、圧力と体積と温度の関係は知っているかというと、う〜むという感じだ。高校物理の教科書を久しぶりに開いても、ぼんやりしている(圧力☓体積/温度=?) なぜぼんやりなのか。人間社会がピストンやボイラーの中で営まれていたらぱっと直感できるようになったのだろうか?
そんなことを思いながら、エントロピーについて調べている。熱と温度が実は別のものだったなんて、知っていただろうか。一度はどこかで勉強したのだろうか。今年も暑い夏を、エントロピーと熱と仕事とエネルギーの区別ができないままで、君たちはどう生きるか?
◎良い先生(1)
◎良い先生(2)
(7月29日)
同じ記号であっても、maj7、dim、aug、sus4、m7-5 こういうのはぱっとわかる。sin、cos、πr2、log、PV=nRT こういうのはうっとつまる。数式や物理の法則は、音楽のコードや楽譜と、似たようなものではないのか。そのうち慣れるわけではないのか。
高校時代にギターを弾いてばかりでなく、教科書を読んでばかりだとよかったのだ。
(7月30日)
「マクロな事実がミクロな描像を正当化する」ーーたしかにそうだね!(JUKEN7 channel から)
(これは猫像。猫像 - Google 検索)
上記の動画で「そういうものか〜」と思ったことーー 気体に「熱が出入りする」とき圧力や体積とは別に「なんらかの量が変化する」よう定義した。それが「温度」だった。じゃあ次は、そうした場合に「その変化が必ず不可逆になる別の量」を定義しよう。それが「エントロピー」だったと言う!
「ただの定義じゃないか、こんなもん」と言いたくなる。しかし、ただの定義をすることで、おそらくあらゆる科学とテクノロジーが生まれたのだろう。物理の授業とテストも生まれたのだろう。
というわけで、世界のとらえかたという点で、2つ大いに思いを巡らせたのだった。1つは、ミクロの物理学ではなくマクロの体験こそが実在しているのかもしれない可能性。もう1つは、その定義や説明がベストではないかもしれない、ベターですらないかもしれない可能性。
……暑いのでのぼせた。
(7月31日)
改めて考える(上記の動画を受けつつ)
「熱い水と冷たい水が混ざってぬるい水になる変化は不可逆」というマクロの生活体験を、ミクロの物理理論が裏付けている、という素直な見方ももちろんできるだろう。そしてそれはまさに還元主義の肯定だろう。
そもそも最初に示した「ミクロの描像をマクロの事実が正当化する」という感動的な見方も、逆方向ではあるが、<ミクロ理論のマクロ現象への還元>ということになろう。
意識はどう成立しているのかや、生命はどのように誕生したのかも、マクロな現象がミクロの理論に十分還元できていない例だろう。しかし、熱するという現象や混ざり合うという現象が、温度やエントロピーというミクロにも通じそうな(?)理論を作ることできっちり説明できたのだから、希望を持ってもいいのだろう。
ここまで<ミクロとマクロは互いに説明できることもある>という話だった。さてそのうえで最近思うようになったことーー 意識にせよ生命にせよ熱の不可逆性にせよ、実在はミクロにあるとばかり捉えなくてもいいんじゃないか。マクロこそが実在だと捉えてもいいんじゃないか。(長くなるのでまた)
補足:「熱力学はマクロの現象をマクロの理論で説明する」という枠組みなので、ここまでの用語の使い方は混乱していたかもしれない。「マクロとミクロの対比」と「現象と理論の対比」が私の気持ちのなかで同居しているのだろう。
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(8月3日)
国債の利回りが上がるのがどういう意味かわかりにくいのは、エントロピーが増えるのがどういう意味かわかりにくいのと、ちょっと似ている。いずれも、わからないとどうしようもないよなと思えるけれども、わかってもどうしようもないよなとも思える。――きょうも暑いが青空はまぶしい。