東京永久観光

【2019 輪廻転生】

青春ホルマリン漬け

さして理由はないが、大昔の日記帳を引っ張りだして読んでみたら、やめられなくなった。評価としてはまあ「目も当てられない」に尽きる。あと、体がなんか痒くなった。それにしても「ここにいるのはたしかにオレなんだが、読んでるオレはいったい誰だろう?」。青年期=前世説、思弁的青春実在論


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そのとき、Aが「■■■」と言った。オレは「○○○」と思った。――そんなふうに昔の日記に書いてあるとして、■■■は確かに事実だが、○○○は同じく事実だろうか? なんてことを考える。人の心の中だけで起こったことは一体この世界にとってどのような位置にあるんだ、といった問い。

ただし日記のページには「■■■」も「○○○」も同等のインクの文字として刻まれているのは、なかなかおもしろい。

一方、「■■■」も「○○○」も、私もたぶんAもすっかり忘れ果てていて、きのう日記を読み返すまでの長い間、すっかり消え失せてこの世のどこにも存在していなかったのだ、という気もする。いやだいたい、日記に書いた「■■■」や「○○○」がそもそも事実だったのかも、今となっては疑わしい。

なんというか、「理論物理学的には、この世界は実体としてではなく、情報としてだけ成り立っているんです」とも言われるわけだが、それって本当かも、という気がしてくる。

ただ、それが実体であれ情報であれ、私はこのとき生きていたなあ、愚かで貧しく正しくもなかったなあ、という実感は、なんといっても捨てがたい。ついでに今もまだ生きているなあ、愚かで貧しく正しくもないなあ、という実感もまた捨てがたい。いかに愚かで貧しく正しくなくとも、この世界はある。(←ちょいと思弁的実在論っぽい)