『三体』(劉 慈欣)を読んでいる。
意外にも文化大革命の一幕から始まる。糾弾されているのは科学者。相対性理論もビッグバン理論も「反動的だ!」と断じられる。「すべての反動的学説を打倒せよ!」 ホントにそんなこともあったのだろうか?
紅衛兵「お前は神が存在すると主張するのか?」
科学者「きみの言う神が、この宇宙の外部に存在する超意識のことだとすれば、わたしにはそれが存在するかどうかわらかない。科学はそれを肯定する証拠も否定する証拠も見いだしていないからね」
そんなことを言うから殴り殺されてしまう。
(11月9日)
「三体」はそういう意味だったのか!
【ネタバレ】小説にはゲーム内世界があり、そこで地球は天変地異による滅亡を反復させられている。中盤の主人公の科学者はそこにログインし、東西の賢者とともに天変地異の謎の解明と地球の救済を試みている。←いまここ。
ここまでに登場した東洋の賢者は周の王や孔子、墨子。太陽と星の動きを奇妙な独自の天動説で解釈する学者もいた。彼らの空しき努力はどこか物悲しい。一方西洋パートではアリストテレスやガリレオがカソリックの教皇とともに一堂に会している。彼らはいわば物笑いの対象。やはりやや中国びいき?
その西洋賢者のそろい踏みのなかで、主人公の科学者は、天変地異の理由を説明するが、教皇は「火焙りだ」を繰り返す。おやこの糾弾の図、小説の最初のほうでも見たなあと思う。
というわけで、この小説をもっと楽しむためには、物理だけでなく世界史を、もっとまじめに勉強しておくべきだったなと、反省する(高校時代)
(11月10日)
そうだったのか…!( p.300とp.304)
以後は急転直下の展開。ちょっと「沈黙の艦隊」的なところも。さて、もう残りわずか。
ちなみに先の【ネタバレ】はむしろ【デマバレ】だった。
(11月16日)
【ネタバレ】「宇宙とはなんだろう」「物理とはなんだろう」。ときにSFはそうした果てのない謎に誘う。しかし小説が終わるためには、その謎は解けなければならない。『三体』では「異星人」がその答えだった。多くのSFはそうだろう。
しかし、得体の知れない何かが異星人だったとわかると、果てしない謎はもう果てしないものではなくなってしまう。たとえば映画『シャイニング』では不気味さがどんどん募っていくが、じつは幽霊だったとわかって、果てしない不気味さではなくなってしまう。
つまり、少なくとも私は、異星人や幽霊ではない「本当に果てしない何か」を、いつも探しているのだろう。異星人や幽霊とはちがって、圧倒的にステージが異なるような何か。(『2001年宇宙の旅』はそうした存在を示唆していたかも。『幼年期の終わり』もそうだったかも)
とはいえ、それ(圧倒的にステージが異なるような何か)もまた、正体が明かされてしまえば、やはり異星人や幽霊と同じステージに引き下ろされてしまう。
では、『マトリックス』はどうかというと、あれもたしかに圧倒的にステージが異なる存在だろう。しかし「世界はコンピュータによる仮想現実だった」という答では、私たちは希望や安心を得ることはできない。そういうものだろう。
私たちが本当に求めている「圧倒的にステージが異なる何か」とは…? 言い換えれば「宇宙とは何か・物理とは何か」を解明しないまま納得させる答えとは…? けっきょく「神」というような用語しか浮かんでこない。
そうなると注目に値するのは『インターステラー』。この映画では、圧倒的にステージが異なる「彼ら」を探しに、はるか遠くまで出かけていくのだが、「彼ら」とはなんと「我ら」だったのだ、という話だった(そう私は解釈している)
得体の知れない「彼ら」の正体が「異星人でした・幽霊でした」というのでは、謎は解けても世界の果てしなさは減じてしまう。一方「彼ら」は「神です」というのでは、世界は果てしないままだが謎もまるきり解けない。しかし「彼ら=我ら」という回答は、どちらとも違って独特の興奮を呼ぶ。
しかしながら。【ネタバレ】『三体』は異星人の話に収斂するとはいえ、面白さ自体は果てしない。異星人が意外にも地球人の鏡像のようであったところも意表をついた。とりわけ監視の労働をしていた異星人の境遇には身につまされるものがあった。
https://www.amazon.co.jp/dp/4152098708
(参考)『インターステラー』感想