東京永久観光

【2019 輪廻転生】

∃といってもラッパーじゃない∃(・∀・)


ツイッターをコミュニケーション用に使う人も多いのだろうが、私などはほとんど独り言用に使っている。その場合、独自記号、独自文法のことばを使っても、べつにかまわないのではないか。

絵文字はそれに近いのかもしれない。あるいは過去形など、べつに「だった」としなくても勝手に「昔」と付けるとか。

外国語を使うというのは記号を使うようなものだから、言いたいことを外国語に翻訳するつもりで勝手な記号に翻訳するという要領。

∀(すべてがそうである)、∃(そうであるものがある)、¬ (そうではない) といった論理記号 みたいなものを、勝手に作るということだ。

そのうち、世界の大半の人びとがベーシックインカムだけで家に閉じこもりはじめると、言語はもう口から出るものではなく、手から(キーボードから)出るものになっていく。本当にそうなりそうな気もする。そのときは、言語は音声として読めるものでなくてよくなる。意味さえ担えばそれでよくなる。

たとえば、異星人が非常に複雑な記号を常に交換している。それは彼らの活動や生存に不可欠に見える。しかしその記号は個々に全く異なっている。意味のようなものをそこに想定することは絶対できない。さて、それは我々のいう言語ではないのか? それともその時初めて言語の枠が拡がるのか?

セミやイルカや大腸菌は何かそんなような記号のやりとりをしているかもしれない。

(しかしまあちょっと気になるのは、「私的言語は原理的に成立しえない」といったことをウィトゲンシュタインが主張していたこと。言語について今も何か見落としていそうな前提があるのだ)

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へえ、筑摩選書 http://www.chikumashobo.co.jp/special/chikumasensho #chikumasensho (ツイッターしろと書いてあるところがウリ、なのではない)


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「先行きの経済・物価動向を注意深く点検した上で、必要と判断される場合には、適時・適切に政策対応を行っていく方針です」

これは我が家をはじめあらゆる家計の望ましい姿にもあてはまる。というか、やるときゃちゃんとやるから、と言ってるだけではないか? おい日銀!