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【2019 輪廻転生】

鬼滅の刃、フランスのテロ、ヒューマニズム(21世紀の啓蒙/ピンカー)

ためしに「鬼滅の刃」をアマゾンプライムで少し視聴。

さて鬼は現実の世にもいるか? 今フランスの人なら教師を残酷に殺した男をそう形容しても大げさではないと思った。妹が鬼になってしまう不条理と絶望も、妹がイスラム国の戦士になってしまった人なら絵空事ではないのではないか。

しかし一方、「鬼滅の刃」は鬼を退治する戦士育成の話でもあるようで、これはひょっとして、イスラム国のアニメ好き戦士なら、むしろ、無神論や資本制に食いつかれて変貌した者どもこそを「鬼」とみなすことが可能ではないか、と思った。

いやしかし実際、どうなんだろう。そんな単純に相対化してよいのか? イスラム信仰を背景にアニメではなくマジに首を斬ってしまえる者と、アニメではなくマジに首を斬られてしまう者とが、現実の社会で折り合いをつけようという場合、両者の思想や心情や認知を、単に対称的に扱うべきか?

 

このような問いに悩む場合に、最適の人物かどうか迷うが、スティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』(下巻)をたまたま今日読んでいたら、やっぱヒューマニズムが大事だよと、ピンカーを嫌いな人なら必ず白けそうなことを強調していたのだが、やっぱヒューマニズムが大事だと私も思う。

つまり。どんなことがあっても人の首を斬りたい斬るべきだ、なんていうのは、そりゃ100パーセント間違っている。そういうのがヒューマニズムだ。これは、西側の先進国の無宗教に近い日本の私ゆえの偏った考え方なのか? そんなことはない。絶対これは揺るがない。そう言うしかない。

それは言い換えれば、だれの首も斬るべきではないと言う私たちは、だれかの首を斬るべきだと言う彼らを、どうにかして説得できるはずだという確信だと思う。そして、だれかの首を斬るべきだというふうに私たちが説得されることはありえないという確信だと思う。

私たちと彼らの思想は対称的ではない。非対称だ。ただし、その背景には、境遇の大きな非対称が横たわっている。私はそう考える。境遇にこれほどの落差がなければ、思想にこれほどの落差は生じないだろう。

だからつまり、人間は鬼ではない。鬼にはなれない。この思想は完全に正しくて揺るぎようがない。もしイスラム国のテロ戦士と対談できたら、私はそう説得したい(ただしズームかなんかのテレビ電話で) かくも純粋で完璧なヒューマニズムが論破されるわけがない。

 

さてそれはともかく、「鬼滅の刃」はスポ根ものかな。「巨人の星」など思い出す。スポ根ものは実力の世界であり強い者が勝つのだが、ただし、そこには必ずなぜ強いかの理論があり、なぜ強いかが説明されつつ勝利する、という図式があったように思う。

 

それから、第1話で山奥の民家で多数が殺されている光景は、熊に襲われた凄惨な事件を思わせた。鬼も怖いが熊も怖い。どっちが怖いか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

鬼には、勇気や友情をもってすれば、いつか必ず勝利できるのだろう。しかし熊はどうか。正義の人だからといって努力の人だからといって、熊はそれに報いて襲うのを控えてはくれない。神を強く信じても神に強く祈っても、(鬼はどうかしらないが)熊は容赦しないだろう。

この世に鬼がいるならば、それを作った神もいるだろう。そして人間が鬼を理解したり退治したりできるかも、神が決めているだろう。熊はどうか。熊も神が作ったように思えても、熊は自然に出てきた。星が作ったと言ってもいい。では熊を人間は理解できるか。星が理解できる程度には理解できるはず。

 

さて、『21世紀の啓蒙』第23章「ヒューマニズムを改めて擁護する」は、思いがけず壮大で強烈な展開になる! 

ピンカーはヒューマニズムの邪魔するものが2つあり、1つは「有神論的道徳」だと断罪。そして宗教の負の側面をなんらの忖度もせず暴きつくし息の根をとめてしまう。まるで絨毯爆撃、焼け野原。

「神が存在するなら」こうでなければおかしいとピンカーは言う。《善人に幸運が訪れ、悪人が不運に見舞われることを示すデータがあってもいいはずだ》《出産で命を落とす母親や、小児癌で衰弱する子ども、地震津波や虐殺の犠牲になった無数の人々が、すべて自業自得だったというデータである》

時節柄もう1つ引用。《二〇一六年にも、福音派があのカジノ経営者を認めるはずはないと、誰もが束の間の期待を抱いた。なにしろ前者が謙虚、節度、寛容、礼節、騎士道精神、倹約、弱者への哀れみを尊ぶのに対し、後者は自惚れ屋、道楽好き、執念深い、下劣、女性蔑視、これ見よがし、大金持ち、人を「負け犬」と読んで憚らない云々と評判だったのだから。ところが期待は裏切られ、福音派と再生派の白人有権者の八一パーセントがドナルド・トランプに投票し、共和党支持者のなかで最も高い支持率となった》《政治が切ったこの切り札が、キリスト教徒の美徳をねじ伏せた》…三光作戦

ところで、ヒューマニズムを否定したがるもう1つはというと、「ロマン主義的ヒロイズム」だとピンカーは言う。う〜むそうか〜 こっちの爆撃はどんなふうにやるんだろう(これから読む)。しかしこのヒューマニズムの章はけっこう長いなと思ったら、最終章なのだった! 

 

とはいえ上記は見せしめの宗教攻撃にすぎない。ピンカーは神の有無をめぐりより核心的な問いにも応じる。すなわち「宇宙の力がかくも絶妙に調整されているのは神なしにはありえないでしょ」という有神論からの問いかけ。同じく「意識という謎は物質や科学のレベルでは解けないでしょ」

これに対しピンカーは、無数の宇宙のうち偶然絶妙に調整された宇宙がこれだったにすぎないという多宇宙論などで、神の関与を退ける。

意識については、たしかに人間には決して表現も理解もできない類だとあっさり降参しつつ、だからといってそのことは物質である脳の科学的な理解をなんら妨げないという立場を強調する。しかも、だからといって意識が非物質の魂であるといった説明がありうるはずもないことをさらに強調している。

この2つ(宇宙定数の絶妙調整、意識とは何か)の説明は一般的なものだろうし、私も同意する。

しかしピンカーはもう1つ、最も核心的ともいうべき問いを示す。すなわち「神がいないなら人はどのようにして生きる意味を見いだしたらいいのか?」

私が今年も「夏の宿題」として考えて、とうに夏が終わるどころか冬が始まりそうになっても、まだ提出できない、この問いを、ピンカーは、当然そうした答えになるしかないとはいえ、実に切れ味よく、言い換えれば実にあっさりと、処理してくれる。

直接的には「スピリチュアリティ」について次のように言う。

《それが意味するのが、自分が存在していることへの感謝や、宇宙の美しさと無限の広がりに対する畏怖や、人知に限りがあると知る謙虚さなどであるならば、スピリチュアリティとはまさに、人生を生きるに値するものにしてくれる経験のことにほかならない。そしてそのような経験をより高い次元へ引き上げるものがあるとすれば、それは科学と哲学の進歩である。だがいわゆる「スピリチュアリティ」は、何かそれ以上のものを意味すると思われがちである。宇宙は何らかのかたちで人格を備えているとか、物事にはすべて理由があるとか、人生の偶然ので出来事に意味を見出すべきだといった解釈のことだ》

そんなものすべてナンセンスさと、ピンカーは断言するのだった。(あのさ、トーンポリシングって知ってる? と言いたくならないでもない)

このようにピンカーは宇宙や人間や人生が「むなしくない」理由をおそらく温かい気持ちで突きつけるのだが、そう考えればそう考えるほど「むなしさ」が、もやもやと立ち込めてこないでもない。しかし、さらにピンカーは次のように言う。

宇宙はべつにあなたに個別の内緒のメッセージなど送ってくれたりはしない。《気まぐれな運勢を宇宙のメッセージと解釈するのは愚かなことだ。その愚かさから抜け出すには、まず、宇宙の法則はあなたのことなど気にかけていないと知らなければならない。そして次に、だからといって人生が無意味なわけではないと知らなければならない。宇宙は気にかけていなくても、あなたの周囲の人々はあなたを気にかけているし、その逆も然りなのだから。あなた自身も自分のことを気にかけているはずで、だからあなたには、自分を生かしてくれているこの宇宙の法則を尊重する義務がある。そしてだからこそ、あなたは自分という存在をおろしかにしてはいけない》

おかしなことに説教っぽくもなってきたが、このコピペを夏の宿題として提出するとしよう。

 

★21世紀の啓蒙/スティーブン・ピンカー https://www.amazon.co.jp/dp/4794224222

 

(10月22日)

『21世紀の啓蒙』第三部は、著者スティーブン・ピンカーが、啓蒙主義を守らんとして、啓蒙主義の敵に最終決戦を挑むパートだ。そこで改めて高く掲げるのが「理性」「科学」「ヒューマニズム」。いわば三種の神器か。

ヒューマニズム」の章で敵は2つ。まず「有神論的道徳」だった。

予想どおりだが、有神論のラスボスとして批判するのはイスラム教。「イスラム諸国の停滞の原因は明らかに宗教」という小見出しがすべてを語っている。しかもその勢いでピンカーは、イスラムを容認する者たちもまた串刺しにしてしまう。

イスラムを容認してきた多くの西側の知識人は、《イスラム世界で普通に見られる抑圧、女性蔑視、同性愛嫌悪、政治的暴力が、もし自分の国でたとえわずかでも見られたらぞっとするにちがいないのに、それがイスラムの名のもとで行われているかぎり、奇妙なことに擁護する。それは一つには、イスラム教徒に偏見を抱いてはいけないという殊勝な心がけによるものだろう。(略) またもう一つには、西側の知識人に昔から見られる、自分たちを卑下して敵を理想化する症候群のせいだろう。 しかしながら、彼らの容認的態度の主因が、有神論者、信仰養護無神論者、第二の文化の知識人にあいだに見られる、宗教への愛着と啓蒙主義ヒューマニズムへの嫌悪感にあることは間違いない》

長々と引用したが、この話をするとき、私には別に指摘してことが1つある。

それは、日本にもイスラムの信徒を同じように擁護する西側知識人がいるけれども、しかし彼ら(日本の西側知識人)は、天皇教の信徒はけっして同じようには擁護しない、という興味深い状況だ。

ムハンマドが冒涜されたと感じる人々の思想や心情に寄り添う必要があるならば、天皇が冒涜されたと感じる人々の思想や心情にも寄り添う必要があるだろうと、私は思うのであった。表現の自由と不自由。宗教を冒涜する自由と不自由。シャルリ・エブド、あいちトリエンナーレ。(今夜はこのへんで)