東京永久観光

【2019 輪廻転生】

日の丸は抽象画ではない


日の丸を奪われたのはさておき、ただの国民とはちがって大使様は特別偉いのであります、というカンカクが、ちょいとアホらしいと思うポスト近代人はいねが?

日の丸の旗は、ただの布ではなく、他のなにかを意味する記号だから厄介なのだ。大使閣下様も、ただのおっさんではなく、他のなにかを意味する記号だから厄介なのだ。靖国神社とかハーケンクロイツとかも同様。

「おれにとっては、そんなもの意味しないぜ」という人には、ただの布、ただのおっさん、ただの広場にすぎない。あるいは別の意味をもつ記号となる。

さてしかし、そもそも、この世のあらゆる事物のなかで記号ではないものはあるのか? つまり何ものも意味しない事物はあるのか? 

このあいだふと気づいたのだが、いわゆる抽象絵画は意味をもたない絵画として制作されるようなので、抽象絵画だけは他のあらゆる絵画とはちがって記号ではありえない、ということになるのではないか。

抽象絵画を見てどう思うかは「まったくの自由」というのは、そういうことなのだろう。それ自体の模様以外に何も意味しない、いかなるものの記号でもない。

ただまあ、この宇宙において自然に生成してきたものは、すべて、もともとそのもの自体であって、なにかの記号ということはなかったはずだ。人が勝手に意味を読むこむから、しかたなく記号になってしまっただけで。

それでふと思うのだが、たとえばヒッグス粒子なんてのは、「質量を与える」という役割を持っているらしいが、それは役割であって記号としての意味ではない。

何が言いたいかというと、純粋な概念は、純粋すぎてそれ以外の何かを意味しにくい、記号になりにくい、のではないかということ。ヒッグス粒子のほかには、たとえば純粋な円とか、純粋な直線というのも、それ自体でありすぎて他のなにかの記号というのはなんとなく相応しくない。

答案用紙の「○」が正解を意味する、といったことはあるものの、その場合は純粋の円というかんじがしない。それはあくまで先生がペンで紙に描いた○だろう。

ということで、抽象絵画はなにかの記号ではない。ヒッグス粒子や純粋な円も、なにかの記号にはなりにい。一方、日の丸様や大使様や尖閣様や竹島様や靖国様は、通常大変な意味をもつ記号でありますから、取り扱いには十分注意しましょう。


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(質疑への応答)

人はたいていの物に意味を感じたり与えたりするので、たしかに人にとってたいていのものは記号だと思います。しかし、抽象画は定義上意味をもたないらしいので「あ、これだけは記号じゃないのかも」 と驚いたしだい。

たとえば道路標識はすべて何かを表すのですべて記号。言葉もすべて何かを表すのですべて記号。絵もたいてい何かを表すのでたいてい記号。でも抽象画は何も表さないので記号ではない。…という単純な理解でどうでしょう?

たしかに何も感じずにいることは難しいですが、それでも「その絵が何かを表しているわけではない」ということはありえます。雲の形や色に何かを感じても、それが記号としてなにかを表しているわけではないのと同じだと思うんですよ。

もしかしたら、人が作ったものが何かの意味を帯びずにはいられないことへの抵抗として、抽象画が出てきたのかも?