視聴中(生配信)
鈴木健×東浩紀「なめらかな一般意志は可能か」(ゲンロンカフェ)
……語りえぬものについては、視聴し続けなければならないね。
つまるところ「経験と記号とのずれ」(東浩紀)
「AIに裏切られたという感覚がもてないかぎり、私たちはAIを人間として扱っていない」(東浩紀 趣旨)
動物は自然のなかにいて間違うということがない。人間だけは間違うということがある。さて、それとはまったく別の意味で、AIは機械のなかにいて間違うということがない。しかし、その意味でも、人間のほうは間違うということがある。――ただいまの発見。
まだ続いている。東さんがAIに限界を見ているのに対し、鈴木さんは人間やその社会の限界こそが気になり、AIならどうにかそれを克服できないかと本気で願っている人なのかな、という感じがしてきた。
[4月5日]
冒頭から改めて視聴している(昨夜は後半からしか生視聴していなかった)
鈴木健という人の発想、および『なめらかな社会とその敵』が、これほどの拡張性・潜在性を秘めていたとは! 10年間の巨大な不覚… この夜の聴衆はみな一様に「鈴木健3.0」を見出したと思う。
本当のキーワードはこれだったかという思いが、繰り返し更新されていく。3時間40分の時点では、「一人称性=個体性」
そして、大規模言語モデルの話、さらに「あなたの人生の物語」の話になった。
しかし、そうしたもの=人工知能が人間を代替できるという信念に対する、東浩紀の懐疑が、きわめて整然とした事実(人間観察)に基づくきわめて深い懐疑であったということも、うかがいしれてくる。
東浩紀の懐疑がじっくり実感されてくればくるほど、ChatGPTは結局ただのゾンビでしかないことが、強く自覚されてくる。つまり、意志や感情すなわち意識がまるで有るように見えてもそれはまるきり無い、ということ。
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鈴木健さんの話で知った「ラジカルエクスチェンジ」
https://note.com/satoruozawa/n/n00db05af4ad9
“社会主義より社会的で、新自由主義より自由な市場を、同時に実現する”