イブライム・フェレールという人の歌が素晴らしく良いことを、外出先で他人に伝えるにはどうするか。歌声を録音したものを持って行って聴いてもらうのが一番いいが、それが無理なら、「イブライム・フェレール」という名前を伝えるのが、現在のところ最も妥当。
しかしこれらが可能なのは、データを持っていく方法(レコード、CD、テープ、スマホ、クラウド)が出来たからであり、それとまったく同じく、グーグルやWikipediaが出来たからこそだと言える。過去には「イブライム・フェレール」が知らない名前だったら、現実的には調べようがなかった。
もちろん、オンラインなら、やすやすと伝えられる。たとえば、https://www.youtube.com/watch?v=SEQpp2xvWY0&feature=youtu.be&list=PLED35E8068A40755D
何が言いたいかというと、昨日の続きで、思考や伝達の道具として、言語だけが、画像やメロディをはるかに凌駕して万能感をかもしている理由の1つは、言語だけは人間が口で声を出すという原始的な方法でやすやすと扱えたからだろう、という推測。
ただしもう1つ、言語だけは、単純な原子化(記号化)と、あるていど複雑な組み立てルールとをもち、それらによって、きわめて複雑な表現の幅が実現できた、ということも、非常に大きかったと思う。
とはいえ、もちろん、イブライム・フェレールの歌は、自分が同じように上手に歌えさえすれば、「イブライム・フェレール」という概念や記号を全く共有していない相手にも、十分伝わるのだろうが、でもそれはたいてい無理だね。
ついでにあまり嬉しくもない21世紀の実情を加えておくと、言語は、もはや口で声に出さなくとも、液晶画面やキイボードでコピペできさえすれば、完璧に相手に伝わる。