近代とは「個人それぞれが独自に考えて生きる」なんてことが可能であり、しかも有意義かもしれないことを見出した時代なのだろう。そして今はもう近代じゃないと感じるのは、大半の個人はむしろ考えるのをやめ、一部の個人が考えたことにただ従ったほうがいいのではという嫌な発見をしそうだからだ。
考えなくても生きていけるし、むしろ考えないほうが楽に生きていける、ような気がするということ。
人体にたとえれば、脳は特別なだれかがやってくれるので、私はどうせ脂肪かせいぜい尻とか足の裏の筋肉程度だろう、みたいな。
もちろん、それでも脳でありたいという願いが、こうした日々のツイートとして漏れ出ていく。
(しかしながら、脳のために他の組織があるのか? それとも、他の組織のために脳はあるのか?)