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【2019 輪廻転生】

★数とは何か そしてまた何であったか/足立恒雄


 数とは何か そしてまた何であったか


昨日紹介した『数学者の哲学 哲学者の数学』を読んでいて、アマゾンの書評が目にとまった。一部を引くと――

《たとえば「空間」という言葉ひとつをとってみても、各時代によって、そして個人的にも、イメージは大いに異なる。今の幾何学者はギリシア幾何学者と同じ図形的イメージや直観を基にして研究しているわけではない。実数や複素数を考えると「数」にしてもそうである。違うものをイメージしているのに、概念の永遠性・普遍性なんて言葉は数学にとって何か意味があるのだろうか?》http://www.amazon.co.jp/review/R11T4ITR13BU99/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=4489021038&nodeID=465392&store=books

評者は「あだちのりお」、数学者の足立恒雄氏と思われる。だいぶ前、私はこの方の『無限の果てに何があるか』に出会い、数学の本性が見えたぞと思った。
 ◎asin:4334781500
 ◎http://www.mayq.net/mugennohate.html 
ウェブにこれを書いたのが縁で、お会いする機会もいただいた。そんなわけで、この書評に懐かしさをおぼえるとともに、足立先生が「数とは何か」「数学は普遍なのか」といった根源的な問いを見つめ続けていることに、心が揺り動かされた。

しかも最近、まさにその問いに改めて挑んだと思しき本が上梓されたことも、ブログを通して知った。それが『数とは何か そしてまた何であったか』。

 ◎http://d.hatena.ne.jp/q_n_adachi/20110619/1308479302


同書は、自然数とは何かをめぐり、まず高木貞治『新撰算術』の一文を引用する。

「ここにあまたの物あるときその個々の物よりその一つの物なりということの外、凡ての特性を抽出し去るときは即ち数の観念を生ず」

そして、抽出し去る、つまり抽象化するとは一体どういうことかと著者は問う。

《この精神的作用が明確にされない限り、言い換えれば、どのように論理的に表現できるのかか解明されない限り、人間にとって数とは何かに正確に答えたことにならないだろう。
 こうしたことは不可能なことで、数概念は人類にとってアプリオリな観念であるとか、経験によって確立されたものであるとか、自然数は神が作ったものであるとか、とにかく人為的に確定できる対象ではないと主張する学者が古くからいたが、そういう考え方は逃げにすぎない》

ここから始まる自然数の解説を通し、足立先生がずっと伝えようとしてきたことが見えたと思った。ポイントはおそらくこうだ。

 (1) 数ははっきり定義できる。(神秘ではない)
 (2) 数は人間が作った。(普遍ではない)

数学者は「数学は実在する」と信じるプラトニストだとしばしば言われるが、足立先生はそうではないことになる。

『無限の果てに何があるか』にもその思いはあふれていたのだが、当時は十分に受けとめられなかった。今回はだいぶわかった。要するに、人間の数学は人間の都合に合わせて作ったものにすぎないのだから、人間の数学が宇宙の本質や原理でなければならない理由はない、ということなのだ(たぶん)。

それに関連し、《1という概念を人類以外の知的存在に(たとえば宇宙からの客人)に伝えることは可能か?》などという問いも飛び出す。

その答え。《数概念を他の星の知性体に伝えることができるかどうかは、筆者の知ったことではないが、数学は、人類の種としての集団幻想なのだという筆者の観点から言えば、他の知性体に伝えることは不可能に違いないと思っている》


私は、どちらかというと「数学は普遍的なものだ」「数学は人間を超え宇宙すら超えた真理を示しているのではないか」と漠然と感じている。しかし、そうではないとする明白な主張をこうして再認識したわけだ。

ということは、数学の本性がわかっても宇宙の本性がわかったことにはならない。これまで不思議で仕方のないものが1つあった(数学=宇宙)のに、2つに増えてしまった(数学と宇宙)?

いやそうではない。こと数学に対しては、「不思議だねえ」とため息ばかりついていても仕方ないということだ。なぜなら、数学は100%人工物であるがゆえに100%正確に定義できるはずだから。


たとえば、自然数だって「定義できる」。自然数はとらえどころなく漂っているのではないのだ。

自然数の定義は数学の解説書でよく出てくる。それはつまり、自然数というものを自然数自体を使わずにどうしたら説明できるか、あるいは、自然数というものを自然数自体を使わずにどうしたら作り出せるか、ということのようだ。

そして私が今回改めて意義深いと思ったのは、自然数の定義には、「集合」ということ、そして「再帰」ということの2つが、切っても切り離せないことだ。

「は? 集合? 再帰? どういうこと?」と言われそうだが、私もほとんど同感なので、今は次のごとくちょっとしか説明できない。


自然数が、集合の考え方で定義できるということの入口だけを示せば、次のようなことだ。

《花というのは桜、梅、チューリップ、バラといった、あらゆる種類の花の全体を一まとめにした集まりに対する名称だという考え方、手法を数の場合に応用するなら、あらゆる単集合の集まりに1という名前をつけるというのは最も素朴で直接的な方法ではなかろうか》(同書)

ちなみに著者は、数学はすべて集合の考え方で説明できると述べている。つまり、数学のいずれの分野も集合で使われる各種の記号を使って置き換え可能ということのようだ。


ではもう一つの「再帰」とは何か。それが自然数の定義にどう関係するのか。……というと、これがもう関係しまくりというか、自然数の定義こそ再帰そのものというか、知っている人はよく知っている基本なので、詳しい説明は貴君にも自身にも省くとしたい。

……が、それでも親切心から私なりにまとめれば―― 「数の1が出来れば数の2はおのずと出来る、数の2が出来れば数の3はおのずと出来る、以下どんどん続く」という仕組みによって自然数は定義できるということのようだ。

わかってもらえたかどうかはさておき、ここで決定的に重大なことがある。

この仕組みの妙は「一定の仕組みによって出来上がった自分自身を、その仕組みの中に改めて放り込む」という操作を繰り返すところにあり、そういうのを「再帰」と呼ぶのだが、人間の言語がもつ優れた特徴こそ、この再帰性(回帰性ともいう)だと言われていることだ。

つまり(つまりが多いブログ)。「私は+君が好きだ+と思っている」という文自身を、この文の仕組み(成り立ち)の中に放り込むと、「「私は+君が好きだ+と思っている」+と思っている」という文2ができ、さらに文2自身を放り込むと、「「「私は+君が好きだ+と思っている」+と思っている」」+と思っている」という文3ができ、さらに…というふうに、いくらでも新しい文が出来ていく。これが、しかもこれのみが、人間の言語だけがもつ核心なのだと、チョムスキーやその周辺の言語論者は激しく強調しているのだ。

ほんとかねという気もするのだが、自然数と人間の言語が「再帰」という核心においてピタリ一致するなんて、これはもう仏教と科学が一致していましたというくらい一大事ではないか!


つまり、というか、もう言葉に詰まりました。


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関連エントリー
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080413/p1
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090525/p1


◎言語の回帰性は、最近出た以下の本でもきわめて重視されていて、改めて驚いた。
★進化言語学の構築/藤田耕司・岡ノ谷一夫
 進化言語学の構築ー新しい人間科学を目指して


◎数学が普遍ではなく地球の人間が自分に合わせて作ったものにすぎないとはどういうことか、さらに、じゃあ我々の数学とは全然違う数学とはどういうものなのか、を考えるには、以下の2冊が参考になる。


★認知意味論/ジョージ・レイコフ
 認知意味論: 言語から見た人間の心
《数学は超越的に真、すなわちあらゆる人々の理解から独立して真であると解釈する必要はない。むしろ、人間の合理性の本質から生じるものとして解釈することができる》


★広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由/スティーヴン・ウェッブ
 広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス
《私自身は、そのようなエイリアン数学を想像するのは難しいと思っているが、私の想像力に足りないところがあるのはほぼ確実であり、そのようなまったく異なる体系が存在しえないことの証明にはならない》《だからといって、われわれの数学が間違いだということではない》
◎感想:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050726/p1