東京永久観光

【2019 輪廻転生】

こっくりして起きても同じ場面と同じ歴史と同じ人生がまだ続いている


東日本大震災がどれほど大きな出来事なのか、どうしたら感じ取れるだろう。実際に遭遇した人と同等のことを、遭遇していない私が実感するのはそもそも無理だろう。だったら、できるかぎり重く、できるかぎり強く、伝えてもらって感じ取るしかない。たぶん今はまだ、東日本大震災の大きさを十分感じ取れていない。

日本の戦争は、私が生まれていない時代の大きな出来事なので、実感するのはもっと難しいはずだ。これまで様々な記録や表現に触れて、あるていど実感できる気にはなったが。

では、ギリシャの1939年から1952年までの大きな出来事を、できるかぎり重くできるかぎり強く、しかも一挙に再現しようと目論んだとき、いったいどんな方法を人は思いつくだろう。大きな出来事を本当に伝えることのあまりの難しさを思うとき、言い換えれば、なにかを本当には伝えないことのあまりの易しさを思うとき、『旅芸人の記録』がなぜあのような特異な映画になったのか、初めて腑に落ちる。

テオ・アンゲロプロス監督の追悼上映としてこの映画を鑑賞し、そんなことを思った。(3.17 池袋新文芸坐

 テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々)

1つのショットや1つの場面のスケールをどこまで大きくしようが、それが伝えるべき出来事の大きさには、そもそもかなわない。せめて、いくら重くてもいくら強くてもいくら長くてもまだぜんぜん足りないと考えることだけが、その出来事の本当の大きさを想像することになる。「これでいいのだ。これがいいのだ」。2度目の劇場鑑賞でやっと自分なりに納得した。

繰り返す。映画が伝えているのは本当にあったことだ。侵略があり抵抗があり内戦があった。ギリシャにとってあまりにも重大な出来事だ。密告も銃殺も拷問も強姦もあった。それに遭遇した人にとってあまりにも悲痛な出来事だ。映画の1つ1つの場面はどれも、その出来事を伝えるのにどうしても外せなかった要素ばかりなのだろう。1つ1つに見合うほどの深さや強さを1つ1つの場面にできるかぎり与えようとしたならば、1つ1つがこれくらい長くなるのは当たり前じゃないか!

私は単純にそう思ったのだ。それはもう最後の最後に語られた場面、獄死した弟オレステスの埋葬を見守った一堂が静かに拍手を始めた瞬間だったけれども。

(なお「ややこしい」という印象は、私たちがギリシャの現代史に明るくないからにすぎないとも言える。たとえば幕府や薩長新撰組それにイギリスなどの関係をまったく知らなければ、幕末のドラマだってちんぷんかんぷんだろう。それに、1つ1つの場面はたしかに長いのだが、場面の数自体はむしろかなり少ない。しかもそれぞれ何を描いているのかは思いのほか明白だ。だから特に「難しい映画」ではないだろう)

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◎『旅芸人の記録』(前回の鑑賞)http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061231/p1
◎『エレニの旅』http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050813/p1
◎『霧の中の風景http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040511/p1