東京永久観光

【2019 輪廻転生】

SYNAPSE


「SYNAPSE」という東大発行のしかしインディーな雑誌がある。
 ◎ http://d.hatena.ne.jp/shokou5/20100803/1280842549
 高級チョコレートの詰め合わせのようで、とても好い。まず一粒。


冒頭にあるのは、映像作家・音楽家 高木正勝と脳神経医学の准教授 坂井克之の対談。題名は、世界を記述する「わたし」たち

高木 僕が作品を手がけるときは、自分の中にある何かの世界を表現しているわけではなく、自分の外側にある世界を記述しているだけなんです。外側に浮かぶものって、触れられへんやないですか。その心の少し先にあらわれるものを描きたい。


こちらのニューロンもつい反応してしまう。というかもう火事(以下)


絵画や音楽を作るのはたしかに作者だ。しかしそれが表わすのは作者自身とはかぎらない。とはいえ作者と無関係ではない。作者の内部と作者の外部との相互作用がそこに起こっているというべきだろう。

では、ヒグマが樹木に傷をつけたりアリが長々と行列したりセミがひたすら鳴いたりするのはどうか。この場合もヒグマやアリやセミの内部と外部が相互作用している。樹木の傷や行列や鳴き声はその結果だろう。そこにはヒグマやアリやセミの中にあるいかんともしがたい様子が表われているし、同時に樹木や地面や空気とはいったいどのようなものであるかの様子もまた表れている。

もちろん人間は動物と違い、自分や世界がどんな様子かを「時には意図して」表わそうとする。それは本当に素晴らしいことだ。しかしどのように意図しても、自分の内部だけが外部と無縁には表われてこないし、また、自分の外部だけが自分の内部と無縁にも表われてこないだろう。

どういうことか、話をもっと大きくすると――

(1) 人間の内部にあるものも外部にあるものもすべて自然現象である。

(2) 絵画や音楽の創作とは、自分の内部と外部の相互作用を意図して起こすことで世界がどうなっているのかを表してみることなのだ。

――なんかそういうことになるのではないか。

さらに。上でいう「世界」とは、よく考えてみると「自分に表れてくる世界」にほかならないのだから、「この世界」=「この自分」という図式にもなる。自分は外部の世界に包まれているはずなのに、その自分の内部になぜか世界がまたすっぽり包まれている? このカラクリは単純なような複雑なような、真理のような錯覚のような、妙なことになって議論はいつまでも続く。

そのカラクリをどうにかスコンと納得したい。そうした願いを込めて、高木さんは芸術を行い、坂井さんは学問を行っているのだろう。


坂井 そもそも「わたし」の体験を反映した神経細胞活動と、これを体験している「わたし」を反映した神経細胞活動を、どうやって分離できるのでしょうか。実は両者は同じものなのかもしれません。
坂井 世界は、それが外にあるか内にあるかを問わず、「わたし」を生み出す装置なのかもしれません。


(続く)